185 神出鬼没の歌長
「やぁエルゥ。呼ばれた気がしたからね。来ちゃったよ」
「お父様……、えっ!? 本当に?」
半開きだった扉を“入っても良い”の意味で受け取った侍女は、アルムをすみやかに寝室の中まで導いた。
何となく、まだ寝ぼけているエウルナリアは寝台で半身を起こし、無意識に額を押さえている。
少し乱れた黒髪や、衣装の裾。履いたままの靴からざっと状況を確認したアルムは、にこりと娘の傍らに立つ長身の青年にほほえみかけた。
「やぁグラン。久しぶり。ありがとうね、いろいろと」
「……とんでもありません。アルム様。至らぬことばかりで」
ざっくばらんな赤髪の商男爵子息の青年が、ことアルムに対しては昔からこの態度を崩せない。ぴしりと背を正し、直立から騎士の礼をとる。
すなわち、生真面目。
それもまたグランが備え持つ一面だな、と理解するアルムは笑みを深めた。スッと暗緑色の瞳を娘に向ける。
「かれは、こう言ってるけど。どう? エルゥ」
「意地悪なお父様ね。グランはいつも、私や周りの困った人を支えてくれる得がたい人よ。今回のことだって。……グランがいなきゃ、私、もっとみっともなく泣きわめいてたわ。地下で」
「!」
少女の何気ない反論の一つ一つに、グランは打たれたように目をみひらいた。
数度、信じられないものを前にした者特有のまなざしで瞬くと、はっと気づいて手の甲で頬を隠す。そのまま顔を逸らし、赤面を誤魔化そうとした。
「――だ、そうだよ?」
「……光栄です」
いつもふてぶてしい不遜さを装うかれにしては、実にしおらしく、素直な声だった。
* * *
「で? なぜいらっしゃるの。アマリナは、レガートのさらに南東。セフュラとオルトリハスを挟んだ向こう側ですよ?」
「もっと喜んでくれるかと」
「ちゃんと、とっても喜んでます! はぐらかさないで!?」
「はいはい」
気を利かせた侍女により、いくつかの灯りを点された続きの間は、窓辺の朝日とはまた別のあたたかさに彩られた。
ちょうど外交官のセバスが戻り、サンドイッチや紅茶、ミルクなどが運ばれたこともあり、卓上はほのぼのと朝食の様相を呈している。
――『ごゆっくりお過ごしくださいバード卿。ただ今、殿下がたにお知らせして参りますので』と、再び退室したセバスを見送り、父娘と騎士は和やかにテーブルを囲む。
エウルナリアはハムとチーズのサンドイッチを口許に運ぶ途中だった。
憤慨する娘に、クスクスとアルムが笑う。二人の会話やテンポはそれ自体が耳に心地よく、容姿も含めて聞く者をぼうっとさせる。
“音楽の化身”。――なんとなく、そんな浮世離れしたイメージすら浮かぶ。
グランは大人しく、普段よりは数段行儀よく、黙々と食事に徹した。
曰く、鷹がアマリナに到着したとき、すでにアルムはレガートまであと一夜の場所まで移動していたらしい。
卿の不在を知ったアマリナの鷹使いが急遽、丸ごと返送されたエウルナリアの文をレガートの鷹使いに宛てて送った機転により、現在に至ると。
それでも、少女は不審そうに目をしばたかせた。
「わからないわ。どんな手品をお使いになったの?」
「うーん。種明かしは単純な、私の機動力の高さなんだけどな」
年齢不詳な美貌の歌長が、ひょい、と肩をすくめる。『おいおい』と、さすがのグランも内心突っ込んだ。つまり。
エウルナリアも唖然とした。あり得ない可能性に気づいたようで、わずかに声を落として囁く。
「ひょっとして……供もつけずに単騎で移動してらっしゃるの? いつも」
「いつもってわけじゃないよ」
「お 父 様 …………!!」
それから。しばらく娘による、久方ぶりの父への説教が始まった。
まるで天上の調べのように甘い顔でお小言に耳を傾けるアルムは、実に幸せそうに相槌を打ちながら、にこにこと頬杖をついている。
やがて、ばたばたと騒がしい足音が近づき――
「エルゥっ、アルムが来たって本当…………!!!! きゃあ! やだ、本物ぉっ!!?」
――と。
大変おざなりなノックのあと、部屋を急襲したゼノサーラ皇女のあられもない叫びで、場はいっそう混沌と化した。




