178 水の皇子、岩の王
「どうかした? エルゥ。顔が赤いね」
「ユシッド様……、あっ!」
予想だにしなかった指摘に動揺が走り、カチャン! と、スープ皿にスプーンを当ててしまった。
エウルナリアは慌てて姿勢を正す。――知らないうちに、ぼんやりしていたかもしれない。
王の私的な空間。三名での会食中。
話題は比較的穏やかで、いつになくディレイとアルユシッドの空気も穏和だったので油断した。
というか。
(えっと……さんざん髪は乱された気がするけど直したはず。顔は……えぇぇえええ……わからないわ。どこ? どの辺??)
気難しげな眉のエウルナリアが、ぺた、と自らの頬に触れる仕草が可笑しかったのか、アルユシッドは吹き出した。
思わず、一段と渋みの増した顔で「……殿下?」と咎めると、笑いの下から懸命に話しかけられる。
「ふっ、ふふふっ……、ごめん。気のせいかな。今日は色々あったからね」
「色々……、そうですね」
しみじみ。
レガート勢でも随一を誇るほのぼの組による、至極まったりとした時間が流れる――かに見えたが。
意外にもそつのない仕草でナプキンを取り、口許を押さえたディレイが突如、切り込んだ。もちろん会話だ。
「いや? 気のせいでもないな、アルユシッド殿。先ほど、エウルナリア嬢をひと気のない通路でかき抱いてしまったので」
「!!!?」
「へぇ」
しん……
部屋から一切の音が消え、空気が軋んだ。ギッスギスだ。
(あぁぁ……もう。さっきまでの穏やかさを返してください、ディレイ?!)
内心で叫びつつ、おそるおそる対面のアルユシッドを窺う。かれは怒るべき場面で静かなときが、一番怖い。
「ユシッド、様…………?」
恋うる少女からの視線に気づいた皇子は、にっこりと微笑んだ。
一級品のうつくしさ。滲み出る優しさ。
高位の天使もかくやという神々しさだ。
が、柘榴色の瞳は確実に敵愾心を孕み、知らんぷりのディレイへと向けられた。そのまま、勢いよく爆弾発言を投下する。
「そう。エルゥはとびきり抱き心地が良いからね。並大抵の男じゃあ、魔が差したって仕方ない。かくいう私も、今日はうっかり唇を奪ってしまって」
「は??!」
「ほう」
思わずすっとんきょうな声を上げたエウルナリアに、アルユシッドは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「きみの大事なレインの治療代とはいえ、無断でごめんね? 本当は『了承を得るまでは』と、ずぅっと我慢してたんだけど」
「…………」
ずっと?
それはつまり、初対面の三年前からだろうか。それとも……?
エウルナリアの思考はいよいよ拗れだした。
(あの不意打ちは、ユシッド様にとっては謝罪が必要なことだった……。え、じゃあディレイなんてどうなるの??? このひと、出会ったのは一番最近なのに、私に一番とんでもないことしてるのよ……?!)
悶々としてしまい、ぴたりと食事の手が止まる。すると。
(あ)
悲しいかな、目の前のスープ皿は片付けられてしまった。
その場で給仕を担当していた筆頭内侍官のヨシュアも同情的な顔付きとなり、温野菜のサラダプレートをそっと置く。
――――何か。
どうにかして、風向きを変えられる『お返事』を、と。
エウルナリアが必死に選んだ回答は、皮肉にも自らに集中砲火を浴びせるものだった。
「いいえ。ユシッド様はお優しいです。むしろ一番紳士的でした」
「……一番紳士……」
「………………ふッ」
アルユシッドは反復し、ディレイは勝ち誇ったように嘲笑う。エウルナリアは大いに焦った。
(え、待って。そこは勝ち負けを争うところなの?)
少女の戸惑いは、天井知らず。
さりとてどうにも出来ずに怖々眺めていると、青年らによる睨み合い――もとい、氷点下に冷えきった微笑み合戦が勃発した。
エウルナリアは勇気をもって話しかけたが、「あの……、お二人とも?」の言葉は素通りした。いやになるほど風通しがいい。(決して良くはない)
「安心しろアルユシッド殿。多少唇を掠めたくらい、俺はガタガタ言わん」
「心外ですね、誰の唇だと思ってるんです可哀想に。意思に反して奪われる一方など、気の毒にはなりませんか? そもそもこの半年間、彼女は傍迷惑な誰かさんのお陰で要らぬ気苦労を背負い込んだのをお忘れで?」
流れる滝のようにすらすらと責めるアルユシッド。
対するディレイは磐石に構えて揺るがず、神妙に頷くのみ。真面目そのものに見えた。
「その点は、先の会議でも挙げられた気がするが……。そこまで深く思い悩ませられたのなら、いっそ男冥利だな。
紳士たるもの、そのまま指をくわえて見ておれば良いのではないか? そいつが、他の誰かの手で羽化するのを」
「……よくぞ言いましたね。そこまで――」
「そっ、『そこまで』! そこまでにしましょう、アルユシッド様!! あの、私達が城に戻ったあとのことも一度、きちんとお伺いしたいのですがっ」
唐突な挙手。
冷や汗をかいた令嬢の懸命な提案に、さすがのアルユシッドも気付いた。
――ここは異国。かれのホームだ。私情はさておき、手札が足りない状況で責めても骨折り損となる。
甚だ不本意だが、と。
「あぁ、……うん。そうだね、一応話しておこうか。ディレイが同席してるときのほうが、確認の手間も省けるし」
「はい。ぜひ」
白銀の皇子が鎮火したことにホッとしつつ、ようやくフォークを手に取る。
溶かしバターをまとうニンジンは金色がかって、口に運ぶとまだ温かかった。ほろほろのジャガイモも。何かの茎も。
…………美味しい。
もぐもぐ、と味わいつつ白葡萄のワインをいただく。
人心地ついたエウルナリアは、ふぅ……とため息をこぼし、若干うらみがましくディレイを見つめた。
「口に合ったか? 厨房が気を遣ったらしい。今夜は俺の好みのものが多い。宮廷らしく気取った献立ではないが」
「えぇ、大丈夫。とても美味しいです」
――――だめだ。動じない。
精一杯、ちくちくと刺しているつもりの視線はやはり、機嫌よく受け止められてしまった。




