173 このひとに。このひとだけに。
荒々しい蹄の音。浮き立つ人びとの気配。戦時下ほどではないにせよ、王がそれなりの部隊を率いて地下へと潜り、長年国に巣食っていた暗部の掃討に乗り込んだという事実は、城内に明らかな高揚を産み出していた。
南棟は正門に近いため“外”の物音が伝わりやすいが、室内に居ては仔細まで掴めない。よって、今しがた城に到着した単騎が何者かも、何をもたらしたのかも不明だった。ただ、ざわめきに似た歓声が階下の気配に混じり、時おり潮騒のように耳に入る。
そばで控える女性は三名。うち、侍女二人はそわそわとしていた。エウルナリアは苦笑ぎみに目許をほころばせ、扉に一番近い女性に話しかける。
「伝令でしょうか。見てきていただいても?」
「! はい、直ちに」
キラキラと目を輝かせた若い侍女は、淑やかに退出の礼をとった。脛まであるお仕着せの裾が翻りすぎない、ぎりぎりの機敏さで部屋をあとにする。
パタパタパタ……と、やがて予想通り、忙しい衣擦れと靴音が廊下を遠ざかっていった。中々お転婆な侍女さんだ。
「まったく……」
年嵩の女官が顔を横に振り、やれやれと溜め息をもらす。エウルナリアは気の毒そうに首を傾げ、残る彼女らに問いかけた。
「貴女がたも。何かあれば呼びますし、手厚くしていただけるのは有り難いんですが…………各々、お仕事があるのでは? どうぞ私達には」
お構いなく。
そう告げるはずだったのに、手前に立つ眼鏡の女性に、キッと睨まれた。先ほど長大な溜め息をついていた女官だ。
「いいえ、エウルナリア様。今現在、これが私どもの仕事でございます。ご自身を庇って賊から傷を負わされた従者の君を、手ずから看病なさりたいお気持ちはお察しいたしますが。
……残念ながら、まだ意識は戻らぬご様子。お目覚めの際、人手はあったほうが宜しいですし。何よりお若い方々を二人きりになんてできませんわ」
「左様ですか……」
エウルナリアは目を丸くした。珍しく、はっきり言ってくれるタイプのひとだ。
『――そのわりには、媚薬を盛ってひとを前後不覚に陥らせたり、入浴の手はずを整えた隠し通路付き客室に王を寄越したりと、やりたい放題でしたよね……?』という心の声が谺しなくもなかったが、もちろん肉声にしたりなどしない。
どうやら、自分はディレイ以外の男性――特にレインと二人きりになってはいけない、という、彼女達共通の不文律があるらしい。解せない。
(そこまでお眼鏡に叶うようなこと、したかな……)
説得は諦めて、ふい、と眠るレインの顔に視線を戻した。
傷に障らぬよううつ伏せに寝かされている。表情は穏やかだ。
エウルナリアは息をひそめ、そっと瞼をとじた。――痛々しい治療の場面も、振り下ろされた大剣の閃きも、すべてこの目に焼きついている。一生涯、ずっと忘れられないだろう。本来のかれは、あんな荒事に巻き込まれるべきひとではないのに。
(私の、せい)
思考はどうしても『そっち』に偏りがちで、エウルナリアは今度こそ苦笑した。
* * *
手を伸ばす。
眠るレインの髪を、指で櫛梳る。
さら。
さらさら、さら…………
こうしてみると、不自然に途切れる箇所がいくつもある。一番短い房は首筋の高さ。そんな際どいところを刃が掠めたのかと思うと、またゾッとした。
真っ直ぐで、深みのある艶。なめらかな光沢。きれいな栗色だ。
幼い頃からかれの髪は大好きで、よく触れさせてもらった。じゃれていたと言っても過言ではない。
――切り揃えなければいけない。惜しいな、と愛でながら。
ちなみに、何度弄ってもレインは起きなかった。アルユシッドが用いた麻酔薬には高い睡眠作用もあったらしい。
仕方がないので、エウルナリアは訥々と語り始めた。少し離れて控える女官らには聞こえぬよう、眠る重傷者にのみ届くpppで。
「ごめんね、私……、あなたに苦労ばっかり掛けてる。演奏とは全く関係のないことであちこち引きずり回して。挙げ句、こんなひどい怪我まで。
帰ったら、邸のダーニクやキリエに顔向け出来ないわ。もう、どうすれば貴方に見合う主人になれるのかしら。小さいときからずっと、同じことばっかりぐるぐる考えてる気がする」
「……それは……光栄ですね。父母のことは、どうかお気になさらず。『中途半端に体を張るな馬鹿者』と、叱り飛ばされるだけです」
「!!!」
驚いた。
目を瞑って話していたので気がつかなかったが、いつの間にか灰色の瞳がこちらを見ている。
ガタン!
大きく椅子が鳴った。つい、腰を引かせるように浮かせてしまった。
「れ、レインっ!? 起きてたの? いつから??」
「さっき…………あ。いえ、実はもうちょっと前から。髪を触られてるな、とは……すみません。気づいてました」
「言ってよ。うわぁ、恥ずかしい……」
お目覚めですか、と、さすがに思わしげな顔色で女官が近づく。
エウルナリアは、すぐにハッと面を上げた。表情を改め、後ろの女性達を振り仰ぐ。
「すみません女官殿、北棟の薬室へ。サングリードの治療師様を呼んで来ていただけますか? 貴女はレガートのゼノサーラ殿下のお部屋へ。『レインが目覚めました』と」
両者、少しだけ顔を見合わせたが、すぐに「畏まりました」と請け負ってくれた。
「扉は開けておきます。いいですね?」と、深く念押されてしまったが――――まぁいい。エウルナリアは、再びレインに向き直った。
「さ。さっきの続きよレイン。本当に…………もう!!! 前、私が狸寝入りした時はものすごく懇ろな『お仕置き』してくれたくせに。仕返ししようにも貴方ってば大怪我だから、私、何にもできないじゃない!」
「エルゥ様からお仕置きをしていただけるなら、かえって夢がありますけど……――ふふっ、申し訳ありません。久しぶりに、お小さい頃の貴女を見るようで。……懐かしくて」
背中の炎症から来る発熱のためか、レインの瞳は潤んでいた。そのまま、伏せられた睫毛が長く影を落とす。口許が淡く微笑む。
「大事な、大事な……僕だけの姫君です。苦労なんか、どこにもありません。強いて言うなら、どう貴女に釣り合える男になるか…………そればかりです。僕も」
「えっ」
ひそひそ声でも会話できるよう、廊下に聞こえぬよう慮って、とても顔を寄せていた。その至近距離が急に気恥ずかしくなる。
まるで、ぼっ、と火が噴いたかのような錯覚。エウルナリアは盛んに瞬いた。「あああ、あの……」と声が上ずり、青い目が泳ぐ。
くすり、と従者の少年は困ったように笑った。やっぱり、あの日と同じように。
(! ~~……レインだって一緒だよ。ずっと――年齢は変わらないのに。たった半年先に生まれてるだけなのに。
どうして追いつけないんだろう。どうして……並び立てない気がして、焦っちゃうんだろう。音楽も。心映えも)
悔しさはない。
ただ、聴けば震えてしまう。あっけなく持っていかれる。
まぶしいほど綺麗で、鮮烈な音の持ち主で。
心のままの指先で産み出すのは先の読めない奔流。けど、スッと筋が通っている。真芯を穿つ毅い音。
かれに愛されてることは知ってる。我慢に我慢を重ねながら、女性として求められてることも。けれど、それに胡座をかくことなんてできない。
絶対、なんてない。
それでもいつか、このひとに心底、自分を選んで良かったと思ってほしいのだ。
だから。
「……」
「…………エルゥ?」
そぅっと、角度を変えて唇を寄せる。瞳を伏せる。
好きで、好きでたまらない気持ちは、声になんてできない。
切なさでどうにかなりそうになりながら、エウルナリアは寝台に肘をつく。まずはこめかみ。それから添い寝するように横向きになり、万感の想いを込めてやんわりと。
熱をもって、少しあえぐように乾いているレインの唇に、口づけた。




