172 待つ身、案ずる妹
「俺だって、キスしたことないのに……」
「うんうん」
「ひどくねぇ? 兄殿下!! 顔が良くて文武両道、皇族で、司祭で! しかも選り取りみどりなところを、あえてのエルゥ!! どんだけ惚れてんだよ?!」
「どんだけ、かしらねぇ……はい。お代わり、いる?」
「あ、どうも」
サク、サクッとナイフが入る。ウィラーク城の南棟にある来賓用の客室では、ゼノサーラが手ずからミートパイを切り分け、グランに振る舞っていた。
もうすぐ、午後四時半。
城に着いたのはもっと前だったが、やれレインが安静に休めるよう個室と寝台を整えるためだの、エウルナリアが身体を清める間の扉番だの、北棟の薬室に仮滞在していたサングリードの治療師に処方せんを渡して助手を務めたりだのと、働き過ぎた。
到着後、青ざめた顔で出迎えてくれた皇女と交わした『あとで報告に来る』の約束に従い、先ほど漸くこちらの部屋を訪れたところだ。
『はい』と目の前に出された、ほかほかと湯気のたつ軽食を勧められるまで、自分が昼食を抜いていたことにも気がつかなかった。
パイを切り分けられている間に、水で薄めた葡萄酒とクッキーもいただく。
固めの食感に粒々の雑穀、干し葡萄も混じっていて、何となく癖になる。美味い。
腹もくちくなり、いい感じに口も軽くなったところで、グランは地下に降りてからの全てを語り終えていた。――つまり、アルユシッドによる、エウルナリアへの突然の口づけまで。
(帰りの馬車ん中で、滅茶苦茶気まずかったんだからな……? 覚えてろよムッツリ殿下め。まぁ、レインを助けてくれたのも殿下なんだけどさ。くっそ、報われねぇなぁ……)
内心で罵倒し、愚痴り、盛大に悄気ているものの、表情はそこまで暗くない。むしろ。
赤髪の青年の隠された胸底を掬いとるように、皇女はぽつり、と呟いた。
「でも……レインもエルゥも、生きて帰ってくれて良かったわ」
――そう、それ。
その一言に尽きるよな……と、しみじみ頷き、グランは三切れめのミートパイに手を伸ばした。大きくかじりついて遠慮なく頬張る。おかげで、迂闊に返事をせずに済んだ。
『無事に』とまでは言えなくとも、今回は二人の機転と幸運、ディレイ王の采配と行動によって『最悪』を回避できたのだ。
場合によってはレインは事切れ、忌まわしい出来事の真っ最中だったとしてもおかしくなかった。薄汚い実行犯らと遭遇した身としては、もはや湿っぽいことなど一切言いたくない。
――もくもく、もぐもぐもぐ。
グランの惚れぼれする食べっぷりを、じぃ……っと眺めていたゼノサーラは、ふと、口をひらいた。
「兄さま達、大丈夫かしら……」
「大丈夫だろ」
ごくん。
すかさず嚥下したグランが事も無げに答える。即答だった。
秋の日没は早い。窓の外は徐々に夕暮れに近づきつつあった。
とはいえ、まだ辛うじてオレンジ色に染まらぬ窓越しの山の端に、ひっそりと濃紺の視線をうつして。
「兄殿下はあぁ見えて剣の腕も確かだし、周りは忠実な部下でもあるサングリードの猛者ばっかり。返り討ちだろ、もし、向こうに先見の明があって、旧神殿跡地を襲ったとしても」
「そうなの?」
「そうだろ」
けろり、と言い放つ青年に、皇女はあらためて目をしばたいた。
なるほど、自分が旅程を共にした東方のサングリードのキャラバンと、似たようなものか――……と。
考えに耽り始めたゼノサーラと、すっかり食べ終えて頬杖をついたグランの耳に。
コンコン、と扉を訪う音が、しずかに飛び込んだ。




