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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 西国の地下迷宮

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171/244

171 白銀の癒し手

 地上に帰還することは、この場合、旧神殿跡地の管理館内に出ることを意味する。

 階段を登り、ごく普通の屋内の様子を目にしたグランは息を吐いた。


 ――夢を見ていたようで。

 けれど、夢ではない証が背におぶさっている。レインはまだ目を覚まさない。


「こちらへ。先触れは出しておきました。アルユシッド皇子が手当てのため、準備を整えておいでです」


 エウルナリアを横抱きにしたエリオットが部屋を横切りながら告げる。グランは礼を述べ、すばやく後に続いた。




   *   *   *




 背面裂傷。

 左肩から右脇腹にかけて、レインの背中は斜めにぱっくり斬られていた。

 幸いさほど深くはないものの、そこそこ失血している。着用していた深い青の上着は血を吸い、変わり果てた色になっていた。もちろん、下の衣服も真っ赤だ。


「傷は背中だけ? じゃあ上着、脱がせて。シャツは切るからいいよ。そこにうつ伏せで寝かせて」


「はい」


 指示を受けたグランが、レインをそっと寝台におろした。

 今のところ一番の重傷者。しかも外国(レガート)からの賓客の随従ということで、無条件に館の一室を与えられている。本来は管理者が宿直するための部屋。寝室はここだけだった。


「うっ……」


 移動の衝撃や痛みで目覚めたらしいレインが、短く呻き声をあげた。アルユシッドはすかさず、声が届くよう耳許できっぱりと告げる。


「よかった。意識はあるね? がんばって。今から治療する。縫い合わせなきゃいけないから。

 ……はい、ちょっとこれ噛んで」


 返事を待たず、用意しておいた薬を染み込ませた布を筒状に丸めて口許にあてがう。弱く口を開けたので、横長に噛ませるよう、奥歯のあたりまで思いきり突っ込んだ。


「薬を含ませてある。飲んでいいよ」


「……」


 当然、喋れない。こく、と頷く。やがて目を閉じ、硬直していた体がふにゃりと弛緩した。

 甘いような、苦いような、独特な香りが室内に立ち込める。はらはらと見守っていたグランは、側にあった(はさみ)でレインのシャツを切り裂きながら問う。


「何です、それ」


「速効性の高い痛み止め。高濃度なら全身の麻酔効果もある。とある植物から取れる、常用性が高い危険な成分でね。分量を間違えると死ぬし、厄介。薄めれば、ふわふわして気持ちよくなるから手を出す素人が後を絶たないんだけど。絶対興味本位で摂取しないように」


「しませんって……」


 意外に饒舌に返された。

 内容がえげつなかったので、つい軽口は叩けなかったが、グランは少しだけ力を抜いた。――助かった。助けられる?


「大丈夫。助けるよ」


 心の声が伝わったように、白銀の髪の皇子があたたかな声音で宣言した。しゅるり、と口許に布を巻く。手と指、肘から下を念入りに浄め、消毒していた。




――――――


(髪……、切られたんだな)

 うなじで括られていた、豊かな栗色の髪が不揃いに短くなっている。

 痛ましい姿に改めて眉根を寄せつつ、むだなく手を動かした。


 傷口の止血、洗浄、消毒、縫合。化膿止めの塗布。あとで飲ませるための薬湯の処方せんも手配して。

 アルユシッドは、迅速丁寧にレインの傷の治療を終えた。グランに支えてもらいながら、ぐったりした体を起こして後ろから抱きつくように包帯を巻いてゆく。範囲が広いので、ぐるぐる巻きだ。


 そこで一息。ふぅ……と、口許を覆う布もそのまま、後ろを振り返った。


「エルゥ、お待たせ。もういいよ」


「ユシッド様……!! ありがとうございます。何てお礼を申し上げれば良いのか……!」


 (せき)を切ったように、震える声が可憐な唇から漏れ出した。


 ずっと、無言だった。祈るように両手を胸の前で組んでいた。

 戒めはすでに解かれていたが、擦れて赤く残った(あと)がみみず(ばれ)だ。

 ――従者を先に、と、頑として治療を受け入れなかった。そのエウルナリアがようやく肩を下ろし、目に涙を溜めている。

 アルユシッドは、やれやれと苦笑した。


(なんて強情な姫君)


 だって、今も自身の埃や汚れを気にして怪我人の側に寄れずにいる。だから、先に別室で汚れを落として、傷の確認と治療を――と、言ったのに。


 衣装は(さら)われた時のまま。クリーム色のドレスにはあちこち血が付着している。

 黒っぽい土汚れもちらほら。突き倒されたり、寝転がされたりしたらしいので仕方がない。むしろ、よくその程度で済んだと言わざるを得ない。


 アルユシッドは吐息とともに口布を下にずらし、ゆっくりとエウルナリアの元に歩み寄った。

 そっと抱擁する。――脆く、細く、信じがたいほど柔らかな(からだ)を腕の内側にやさしく抱き止めて。


「ユシッ、ド……」


「きみが無事でよかった……レインも。よく頑張ったね。二人で、帰ってくれてありがとう」


「…………っ……!」


 腕のなかの緊張が一気に和らぐ。アルユシッドは目を瞑り、かれ自身も掛け値のない感謝に身を委ねたくなったが――――ぐっと堪えた。

 すぐに切り替える。やんわりと愛しい少女から離れた。


(外のテントでは、捕虜の治療と尋問が終わった頃だ。そろそろ……)


 ざわざわと館を取り巻く兵の気配。方々に伝令が行き交う、戦地における司令部のような空気が肌を刺す。

 なので、あえて安心させるよう微笑んだ。


「きみ達は、控えの馬車で城まで戻りなさい。グラン、二人の警護をよろしく」


「仰せつかりました、殿下」


 いつになく真面目に受け答えしたグランが騎士の礼で応える。

 エウルナリアも理解しているのだろう。つかの間、瞳を曇らせて瞑目。やがて意志を込めてひらいた。


「……わかりました。サーラとともに、殿下や皆様のご無事を祈っています。何かご指示はありますか?」


「いや、特に。多分日暮れまでには決着が着くんじゃないかな。私はちょっと、外で今後の相談をしてくる。迎えが来たら行ってね」


「はい」


 エウルナリアは、背筋を伸ばしてしゃんと立っている。汚れていても誇らかな令嬢そのもの。

 しかし――


 去り際、小柄な彼女の顔を覗き込む。引かない。

 そぅっと顔を寄せても逃げなかった。張り詰めたまなざしで、なお動かない。


(ふぅん?)と思いつつ、指で繊細な(ライン)を描く顎をとらえ、軽く口づけてみる。「!!? で、殿下っ……?」と、ようやくわたわたと表情が戻ったので、安心安心、とばかりにアルユシッドは目許を和らげた。今度こそ扉へ向かう。


「『殿下』は無しだよエルゥ。治療代、ご馳走さま」


 振り向かず、ひらひらと手を振った。




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