170 蝙蝠の見る夢※
まずい。
殺られる。終わった、捕まる――!
一瞬で自らの失態を悟った男達の転身は早かった。
想像を絶する少女の身を絞る声に呑まれ、視線を外せなかった。注意を、迫る複数の足音に向けられなかったのは特に致命的だった。
背を向け、標的となる松明を放り投げて一目散に踵を返す赤鷲。追う片目。
その背を。
「射ろ。外すな」
「は」
一片の躊躇もない指示、応える声。すでに矢をつがえ、放つ用意をしていたのではないか。
それほどの間断のなさで弓を引く音が響く。
――矢羽の、風を切る音よりも肩を。足を貫く矢じりによる熱と痛みが速かった。
「グラン、姫と負傷者を連れて先に戻れ。エリオット、すみやかに客人らをアルユシッド殿の元まで届けよ」
「! わかっ、……はい!!」
「御意」
いち早く、刺さりどころが悪かったらしい赤鷲が転倒する。わめき、騒いでいるが片目は一目散にその場から離れた。
早く。はやく、もっと遠くへ。何とか逃げおおせないか、闇と小路にまぎれて、と視線をさ迷わせるも、手近なところに分岐は一つもない。一本道だった。「捕縛せよ。殺すな」など、その声は荒ぶるところなど何もないのに、一々耳に入る。
カチカチカチ……と、勘に障る震えに似た音がごく近くから聞こえた。
違う。歯の根が合っていない――俺の。
「!!!!」
「不様だな」
風圧が、体の横を走り抜けた。後方に落としてきた松明のわずかな光源を受け、砂色の長く流れる尾が、白いマントとともに翻る。
髪だ。英雄王の――……!
気づくのと、下から繰り出された銀光が喉元に迫るのは同時だった。
片目が、たった一つしかない目を限界までひらいた瞬間。
「お待ちを!! 陛下! せっかく踏めた、奴らの尾ですよ……!」
――――ピタリ
(!!!!)
信じられぬ反射力。神業じみた制御で、剣の軌道が何らぶれることなく静止した。
もはや、逃げることはおろか、動くことすら叶わない。少しでも身じろぎすれば、刃は容易く喉に触れるだろう。それほどの肉薄した距離だった。
カチ、カチカチカチカチ…………
思い出したように歯が鳴り始める。
ぴり、と、おかげで薄皮一枚切られた。やばい、これ以上は。
見たくもないのに、目の前の偉丈夫――組織にとっては目障りこの上ない、王となった男から目を逸らせなかった。つめたい、炎のような視線で射抜かれているので。
背を滝のような汗が流れる。
それが矢傷のせいなのか。今、このとき全身に浴びせられる威圧のせいなのか。それすらどうでもいい。片目は形振り構わず嘆願した。
「たっ……頼む。殺さないでくれ。話せることは何でも吐く。アッ、アジトへの案内だってできる。だから……!!」
「…………セネル、これも捕縛」
「はっ」
いっそう、蔑んだような茶褐色の切れ長の瞳が、すい、と逸れて片目の後ろを流し見た。
「ガザック。褒めはせんぞ」
「――御意に」
白髪がうっすらと混ざる黒髪。短く整えられた口髭。いかにも人の好さそうな中年の男性が、きびきびと片膝をついた。
つかつか、とディレイが歩み寄る。
抜き身の白刃が閃き、切っ先は顔を伏せるガザックの顎の下へ。刃ではなく、剣の腹――平たい面でもたげられた。かつての主従が、視線を結ぶ。
「どの面下げて、一体何度、俺を利用すれば気が済むんだ。この阿呆が」
思い切り、チッ、と舌打たれた。その面影に、幼い頃のかれを見る。ガザックはしゃあしゃあと微笑んだ。
「何度でも。……何度だって、『有効活用』いたしますよ。貴方は逸材だ。運もある。生き延び、うつくしい生き餌まで引き寄せて。長年我らを苦しめた禍根の端まで易々と捕らえられた。あとは間をおかず、粛々と包囲網を敷けばいい。あと、少しです。先代の悲願まで」
みるみる間に、ディレイの顔が曇る。
不愉快だと罵ればいいのか。よくもまぁ、と呆れればいいのか。
はーーー……と、長く長く陰鬱なため息をこぼす。ぐしゃり、と空いた左手で額の後れ毛をかき上げ、剣を鞘に戻した。
やり場のない怒りに暴走しそうな拳をだらん、と下げて、一旦腰に当てる。
「……今回は、いくらなんでも独断が過ぎた。レガート皇室の目もある。犠牲も出た。…………復職は叶うと思うなよ。左遷だ左遷。東ウィズルあたりに大人しく引っ込め。いい加減隠居しろ、妻子が泣くぞ。それとも、養父殿に化けて出てほしいのか」
「左遷は、寂しいですが喜んで。お手紙を差し上げますよ、折りにふれて。前将軍閣下については……御免被ります。ふふ、祟られては敵わない」
「……」
む、と口の端を下げたディレイは今度こそ、どうしようもないまなざしで目の前の男を見つめた。「立て。左遷の前にもう一働きだ」と、跪く脛の辺りを蹴りつける。結構な力を込めてやった。
痛た……と、わりと、本気で痛がりつつ立ち上がるガザックの胸ぐらを掴み、すたすたと側で待機していた騎士らの元へと向かう。全員、訳知り顔だった。
すぅ、とディレイは息を吸う。すらすらと、淀みなく命令を下した。
「捕虜を連れて、全員即地上へ。戻り次第治療。同時に尋問。地上の逃げ道を押さえた上で、地下から一気に叩くぞ。地上部隊、地下部隊両方を選別せよ。こいつは――」
ぽいっ、と手放す。ガザックはたたらを踏み、捕虜の側へと仕分けられた。
「『裏切り者』だ。レガートにはそう伝える。形式上、裁判だの調書だのでどのみち拘留は必要だろう。奥方は慣れっこだろうが、しばらくは罪人として扱うぞ。……バカが。覚悟しとけ」
勝手に動き、勝手に『先代のために』と平気な顔で王を。自身すら省みず嘘八百並べられる男を。
ディレイは束の間、腹の底から哀れみ――――可能な限り、すばやく心を切り替えた。
地上に逃したエウルナリアを守るために。
根こそぎ倒すべき、地下の敵へ。




