169 名を呼ぶ声
「――聞こえたか? エリオット」
「は」
耳が拾ったのは断続的に響く金属音――剣戟。馴染みのある音だった。前方やや左手。手にした灯りをかざすも、今は一本道。分岐はない。
(貧民窟に向けて方角は南東……隠し扉を背に二時方向。ほぼ真っ直ぐ進んできた。アルユシッドに任せたサングリード仮本部が奇襲を受けたわけでもない。ならば)
今も、かすかに聞こえる。
音の出所を探るために、ディレイはあえて足を止めた。付き従っていた騎士らもそれに倣う。
エリオット、と呼ばれた灰髪の騎士は、ごく冷静に答えた。
「乱闘ではありませんね。手練れ同士の死闘でもない。むしろ、実力差の明確な一対一かと」
「あぁ。向こうの仲間割れならば、いいが。そうとばかりも言えん。――走るぞ。極力音は立てるな」
「は」
目線でのみの一礼を受け、前方へ一歩、二歩。前傾、やがて加速し、上体の振動を最小限に抑えて駆け出した。
あたりは変わらず真っ暗だが、ほのかに松脂の匂いがする。薪を燃やしたような、焦げた匂いも。
近いはず。追い付けるはずだ。
音から察せられる僅かな変化も聞き漏らさぬよう、ひた走る。後ろは見ない。
背後を任せているのは、ともに育った昔の直属の部下達だ。何も言わずとも、分岐のたびに目印の簡易ランタンを置いていたことは知っている。
(……こっちは、付いて来れているか)
ちら、と右に視線を流すと、異国の赤髪の騎士が斜め後ろを並走していた。
体力的な意味でも、機転という意味でも問題はなさそうだ。
道は間違いない。無駄な分岐だらけだった区画はとうに抜けており、幅の広い通路がえんえんと続いている。
すると。
――カァァン……
ガラ、ガラァン…………
(!)
ひときわ派手な反響音。どちらかの剣が落ちたと、苦もなく知れた。
これで猶予がなくなってしまった。一秒でも早く、と念じていたのに。
「……嘘だろ、分かれ道……?」
順路とみられた広めの通路は唐突に終わりを告げ、円形に整えられた中継地点らしき場所に躍り出る。
後続の一人が苦々しく呻き、全員の足が止まった。
分岐路。
しかも、四つ。
剣の反響はおさまり、辺りはシン……と静まり返った。
あと一寸。もう少し打ち合いが続いていれば、苦もなく選べたのに。
四つの入り口を睨み据える主君に、エリオットは進言した。
「……我々も分かれましょう。陛下はそちらの少年とあと一名をお選びください。残りは二名ずつ。知らせの笛を四通り決めれば問題ありません。我々の誰が見つけたとしても、必ずや、お救いします。――剣にかけて」
「……」
ディレイはひそかに苦渋の表情を浮かべた。
確かに理に敵っている。不可はない。最善手とは呼べぬまでも仕方なしと、頷くべきだった。
しかし。
――――ァァ、ァアアアアアアアァァァ…………
「「「!!!!」」」
全員が凍りつき、立ち尽くした。
伝説の鳴き女さながらに聞くものの胸を裂く、尾を引く声。にも拘らず海の魔女じみた牽引力がある。止まない。続いている。
おかげで出所は知れた。
魂を奪われている場合ではない。もちろん恍惚とする場面でも。一同は、まとう空気をがらりと変える。
「陛下、今のは」
「流石、と言うべきだろうな。『一番左』だ。目印は要らん。全員来い! 全速力!」
「はっ!」
「はい!!」
騎士達の応えに、当然のように赤髪の少年の返事が混ざった。滑るように駆け出した王を先頭に、総員抜剣。鞘走る音が九名分かさなり、続く。
――――落ちた剣。徐々に近づく、彼女の声。
そこから弾き出される予想は、そう多くない。おそらく。
(行けばわかる。対応はその時に)
要らぬことは早急に頭から追い出した。
今、この時。せねばならないことを。
煙る、松明の匂いが濃くなってゆく。
曲がり角を左に折れた先、揺れる火影が見えた。
* * *
(頼む。間に合え……!)
血を吐くほどの焦りに顔を歪めたグランは、王の背を飾るマント越しに、ようやく追い付いた。
刮目。一瞬で事態を把握する。
――――――
エウルナリアがいた。
座り込み、狂おしく嘆き続ける彼女を抱き締めて、背から血を流すレインも。すぐそばに大中小の男が三名。
(!!)
カァッと、血が昇った。同時に頭の裡が真っ白に染まる。
不吉な言葉も何もかもすっ飛ばし、腹から声が迸り出た。――――なにを、何を悠長に寝てるんだあいつは?! と、怒りすら込めて。
「……エルゥッ……、レインは! あとは任せろ! だから泣くな。しっかりしろ!!!」
びくん、と少女の肩が跳ねた。
求めた姿。現れてくれた、待ち望んだ助け手の面々に、エウルナリアの驚異的な叫びがぴたりと止まる。ゆるゆると、細い首を巡らせて。
「グラン。…………ディレ、イ……っ!」
喉から絞り出される、名を呼ぶ声。
濡れた青い瞳が焦点を結び、幼馴染みと王をくっきりととらえて、映した。




