165 スラムを知る王
ランタンの明かりを受けて、グランの夜色の瞳が星の海のように灯火を映す。
ひょい、と短い赤髪を揺らして覗き込んだのは、真っ暗闇。ゆるくカーブを描く壁面に突如としてひらいた長方形の穴の向こう側だ。
(……ま~た、大胆なとこに開けやがったな連中。自分らが神殿を追い出される日が来るなんざ、思いもしなかったんだろうけど)
苛立ち半分。ふんす、と、いかにも憤慨した表情で前方を睨み据える。
とにかく、関わった人間全員縛り倒して、相応の報いを受けさせたい気分だった。当たり前のことだが、怒りはディレイだけのものではない。
エウルナリア達を攫ったのは、逃亡中の旧神殿の一派だろうと予想がついていた。加えて手引きしたのは王の腹心だった男、ガザックだと。
――つい、かれを思い出して複雑な心境になってしまう。
いかにも人の好さそうな顔。飄々とした風体で、優しそうな笑みを口ひげの下に浮かべて。
(裏切られたってぇ口惜しさとか……、憎しみがないわけじゃないよな。地下に潜る前とか、すっげぇ静かに怒ってたし)
そっと、視線だけで肩の後ろを窺う。
各隊の代表を招集して状況確認や新たな指示、もろもろの采配に時間をとられるディレイの横顔は凪いだ湖面のようだった。さざ波一つ、感情の揺れ一つ感じさせない。
(……こいつ、ウィズルの王だもんな)
しみじみと、ほんの少し。
グランは目の前の恋敵を哀れに思った。もちろん口には出さない。出せば、剣か言葉のどちらかで滅多刺しになりそうな気がする。
――と、突然目が合った。
(!)
頭のなかはともかく、挙動に関しては不審な点はなかったはずだ。
何か、自分でも預かり知らぬ、よからぬ気配が漏れ出ただろうか……と、グランは内心慌てふためいた。
カツ、カツ、と真っ直ぐに抜け穴の手前で佇んでいたグランの元へと歩む王。
あたらしい部隊の編成は終わったのか、見たところ少数精鋭のみ率いている。一般の兵や優男めいた騎士は一人もいない。どことなく存在に凄みのある騎士が七名、規律正しくぴしりと付き従っている。
ディレイはにこりともせず、さらっと客分の青年騎士に告げた。
「よし。待たせたな赤毛」
「構いません。そもそも、無理を言って連れていただいている身ですから。もう、いいんですか?」
「あぁ」
答えつつ、ディレイは気負いなく穴をくぐった。
つかつかと奥へと進む背を、グランも早足で追いかける。強面の騎士らも同様、躊躇なく隠し扉のために敷かれていたレールを跨いで行った。
――――――
一本道。
足元の床は、ディレイが手にしたランタンで自然と照らしている。グランは右隣で、なるべく進行方向の暗がりを払うように、遠くめがけて灯りを向けた。
ぼんやりと浮かび上がる十字路。ディレイは迷わず直進を選んだ。
(えっと……たしかここって、元々の地図にはない場所のはずだよな。なんで迷わねぇんだ?)
戸惑いのまま、グランは問いを異国の客分らしく整えてから声に乗せた。たえず耳を澄ませていられるよう。うっかり上げた自分の声が、求める少女の声を消してしまわぬように。
配慮は伝わったのか、ふ、とここに来て初めて笑んだ王が腹に響く低音でささやく。むだに、掠れて柔らかな色気に満ちていた。
「――あぁ。実際に、蓋を開けてみなければ分からなかったが。この隠し通路の用途を思えば、行き着く先は知れている。多少の枝道は用意されているようだが、方向はこっちで正しい。念のため、分岐路に関しては編成し直した部隊が調査に入るはずだ。ついでに地図作成をな」
「はぁ」
今いち要領を得ない。
?? と、盛んに疑問符をまとう青年が可笑しかったのか、ディレイはわずかだが頬をゆるめた。
「金子代わりに納められた娘を売りたい神殿に、買いたい業者。――……他にも。俺は、お前達には理解しがたいだろう光景をさんざん見てきたからな。幼い頃」
「えっ」
気のせいだろうか。
王、という呼称には相応しくない幼年時代の、とんでもない暴露だった。グランは思わず表情をなくし、素で訊き返す。
まじまじと刺さる視線をものともせず、ディレイは淡々と口をひらいた。
まなざしは一直線。ひんやりと淀む空気。不明瞭な視界をものともせず、ひたすら前へと突き進んでいる。
まるで、見えているように。
「……あいつから聞いていないか? 俺は、この街の貧民窟育ちだ。親は平民だったが、貴族の私兵どもに殺されてな。似たような子ども同士で地下でつるんで生き延びて、なんとか凌いでいた。それを養父殿……当時の老将軍が、まとめて引き取ったんだ。色々あって、正式に養子縁組したのは俺だけだったが」
「! それは……」
不覚。とっさに言葉を継げない。
引き絞るように、ぐぅっと喉が詰まり、何も言えずに足だけを動かすグランに対してか。目の前に横たわる無音の暗闇に対してなのか。
砂色の髪の王の声はくぐもることなく、はっきりとした毅さを滲ませて響いた。
「貧民窟に近づきさえすれば、土地勘なら腐るほどある。できれば、エウルナリアには頑張って奴らを足止めしてほしいものだな……。俺も知らなかった、奴らの地下の根城から地上の《店》に連れ込まれる前に。確実に、あいつ……『あいつら』を無事に連れ戻すには、腹立たしいがそれしかない」




