160 暗転
――来た道を。
劇場まで戻るよりは、記憶する往路を遡るほうが早いと一瞬で判断した。
「エルゥさま、こっちへ……!」
主の細い手を握り、すばやく先の十字路まで戻る。光源を持つのはガザックのみ。真っ暗な地下道を走るのは危ういが、あのディレイのことだ。迎えの人員を寄越していてもおかしくはない。迷ったとしても、それまで捕まりさえしなければしのげる。勝てる。落ち着け。
極力早足で逃げつつ、パチン、とマントの留め金を外した。
案の定、すぐに追いつかれそうになったので視界を塞ぐよう、盛大にガザックに向けて放り投げる。
「待ちなさい! 話は最後まで――レイン君。危ないから……って、わぷっ!?」
「危ないのは貴方です!! 裏切り者のくせに!」
「いや、そうだけどそうじゃなくて……」
どんどん暗闇が深くなるのを、あえて真っ暗な道へと進む。左手でエウルナリアの手を。右手は壁に付けて。
(あった。ここから十七。次を左。道なりにしなるカーブの……確か三叉路。そこは真ん中。あとは)
「直進十七、左に二十六。真ん中二十二に右九よ」
「いたみいります」
こんな時でも花を閉じ込めた鈴のように、強ばった声が凜と響く。即答したレインは彼女の指を、きゅ、と改めて握った。すぐさま同じだけ握り返される。いとしい感触。
――何としても、無事に。
追いかけっこは皮肉にも、鬼が近づくたび通路の陰影が見てとれて逃げやすくなった。
もう少し……と、闇雲に主を転ばせないよう気遣いつつ、時おり空いた手で壁を叩き、道筋を確認しながら走る。
頭に描いた地図では、そろそろ三叉路。カーブの曲線を誤り、壁に向かって突進せぬよう最低限の注意を払った。その時だった。
「!?」
壁だったはずの右側に、何もなかった。
手が、無情にも宙を泳ぐ。バランスを崩す。やばい!!
「ぐっ……」
堪えようとした上半身は、何か――誰かに勢いよくぶつかり、呆気なく受け止められた。
(誰)
ディレイ王付きの騎士じゃない。
血の気が下がり、焦りと混乱が瞬く間に沸点に到達する。「ん~? おいおい、話が違うじゃねぇか、男か?」などと、妙にのんびりした下衆な呟きまで聞こえて。
レインは躊躇せず叫んだ。
「エルゥ様! どこでもいい、逃げて! 走って!!」
「!…………やっ……!??」
痛む胸をねじ伏せ、主の手を離した。しかし彼女もまた、同時に何者かに羽交い締めにされてしまっている。
――うそだろ、新手。何人?
容赦のない絶望に、軽く心がズタズタにされかけた頃、ガザックが。かれの持つ光源がゆらりとエウルナリアの背後に迫った。
新手の人数と風貌はほぼ明らかになったが、この場においては何の救いにもならない。残酷なだけだ。
松明の炎に浮かび上がる輪郭。相手のその姿に、レインは思わず息を飲んだ。
(……でかい)
見知らぬ大男だ。太っているわけではない。いかにも荒事を生業としていそうな、良く言えば傭兵。ありのままを述べれば山賊の下っ端と呼ぶべき典型のような野卑さ。
口を塞がれたエウルナリアのもがく声と、抵抗を試みる気配が伝わる。が、そいつは嬉しげににやにやとしていた。
「残念だったなぁ赤鷲。当たりはこっちだ。すげぇ上玉」
「!!!!」
――――誰の、どこを、触っているのか。
にわかに血が逆流した。カッ、と怒りで目が眩む。考えるより前に、口から罵り声が迸った。
「死ねよ糞野郎、放せ!! その方は」
「まったく、言わんこっちゃない……おいお前ら、手荒に扱うな。そのまま二人の顔を押さえてろ」
「「???!」」
大儀そうではあるが、さほど息を乱していないガザックが近寄って来た。一体何のつもりなのか。
主同様、がっちりと後ろから固定されているレインは無造作に顎を掴まれ、更に虫酸が走る。
信じられない。こんな目に、この方を。
「あぁ、目で射殺されそうだ……まったく。損な役回りだよ。はい、ちょっと寝てて」
――――――何かを嗅がされた。
それが。
不覚にも、レインが意識を失う直前の記憶だった。




