158 疑惑
「おつかれさまでした、エルゥ様」
「うん」
拍手は止み、代わりに客席に漂うのは静かな高揚の名残。ざわめきを背に受けながら、エウルナリアは来た道を戻り始めた。
通常の舞台であれば、袖の部分に相当する。
遠目には縦に細い隙間に見えたが、こうして立つと大人が五人は横に並べるだろう。そこにレインが控えている。
温もりのある灰色のまなざし。涼やかな面ざし。一途に、幼い頃からずっと側にいてくれた。例えようもなく得がたいひとだ。
従者、幼馴染み、乳兄弟――色々と呼び名はあるが。こういう時、なんと言って良いかわからない。かれの顔を見ると、無条件にホッとしてしまう。
エウルナリアは困り眉で口角をあげると、急激に肩の力が抜けるのを感じた。
歌試しの前は、あれほどみなぎっていた「気」がどんどん霧散してゆく。
先ほどまでとは打って代わり、がらりと様変わりする少女に、レインは堪らず、くつりと笑んだ。小首を傾げる。
「緊張しました?」
「あんまり。だけど、歌い終わったら気が抜けちゃった」
「そのようですね。貴女らしいです。でも、とっても良かったですよ。当日もあの歌で?」
「ん……、変えるとすれば最初だけ。ちょっと考えが湧いたんだけど……」
――と。
話しつつ階段を下る。後ろに視線を流したエウルナリアにつられ、レインも肩越しに振り返る。二人は、まぶしい白の円形劇場をあらためて仰ぎ見た。
ドームのなか、舞台そのものは頭上から光を浴びる仕組みになっている。
天井の中央部分は透明で、複雑な屈折率。きらきらと光が遊び、ただの硝子とは思えない。透かした陽がプリズムを帯びているので、材質がクリスタルなのか――旧神殿が蓄えた富の一部、あるいはとっておきの寄進物だったのか。細工・質ともにすばらしいものだった。
あれを風雨にさらす豪快さが凄い……、と思う。(普段は保護幕などを掛けているのかもしれないが)
太陽の高い時刻であれば、特段何もせずとも天然の照明を確保できる。大変よくできた仕組みだった。
ふわ、と大好きな少年を見上げて微笑む。右手はすでに預けてある。
「行こっかレイン。皆、待ってるわ」
「はい」
身を滑らせて一転、主従は暗がりの階段を降りきった。
カッ、カッ……と二人分の踵が床を打つ。
ほどなく、本格的な地下通路に出る直前の小部屋に到着した。待機していたガザックが「おつかれさまでした」と、声をかける。
いつになく口数が少ない。歌に関しても何も言われなかった。
(? ……聴こえなかったか、言うに及ばないか。まだまだね、私も。もっと修練しないと)
確かに、エコーを気にしすぎて声量を無意識に抑えてしまった。
これも要課題。客席で聴いていた皇子達にあとで判断を仰ごう……と、瞬時に切り替える。
「いえ、こちらこそ。お待たせして申し訳ありません」
ディレイ王の慇懃な側近男性に、エウルナリアはそつなく淑女の会釈で応えた。
合流。三名となり、木の扉を開ける。
* * *
往路、地下を通って舞台まで付き添ってくれたのはレインとガザックだけだった。グランも同行を申し出たが、叶わなかった。
『宜しければ、警護を兼ねて私がお供しますよ。地下はちょっとした迷路ですし、道に不慣れな方は適さない』――――と、爽やかに両断されたのだ。
赤髪の青年は渋々引き下がっていた。
(ガザックさんって一見ひとが良さそうなのに、ディレイが居ないと妙に押しがつよいんだよね。……まだ、掴めないな。ヨシュアさんよりも)
気のつよい従者なら、ほかにも心当たりがある。ほんのり苦笑が浮んだ。
先頭を、松明を掲げたガザックが。三歩離れてレインにエスコートされたエウルナリアが。乾いた石畳を踏みしめて薄暗い地下道を進む。
まっすぐ。次は右。
まっすぐ。次は…………
「んん?」
かつん、と鳴る小さなヒールの音。
迷うように足を止めたエウルナリアは、ふと戸惑いを浮かべてレインとガザックを交互に見比べた。
「どうかなさいましたか? エウルナリア様」
訝しんだガザックが声をかける。
エウルナリアはとっさに答えられなかった。レインも無言だ。
ジジジィッ……と、松脂を焦がす音。木と布が燃える独特の匂い。煙。松明の先端で揺れるオレンジ色の灯火は暗闇のなか、光源としては弱く、純粋な熱源として際立った。
火、そのもの。
斜め前から照らされた、見慣れたほうの顔に自分と同じ違和感を見つけて、エウルナリアはちょっとだけ勇気を奮う。
おそるおそる、先頭のガザックに問いかけた。
「あの……ガザックさん。道、違いません? 来たときはここ、曲がりませんでした。この分岐のあとは十七歩まっすぐ。それから左でした。右じゃありません」
「なんと。……驚いた」
ぴったりと寄りそう主従に、そっくり同じ表情が浮かぶ。
疑惑。
アルユシッド皇子達が到着する前日、王は何と言っていた?
――ガザックの場合は裏切りととれるほどの独断でもないが――と。その言葉の意味を、焦る頭で考える。
(本当に? でも、裏切りだとしたら、なぜ?)
膠着する空気をものともせず、初めて見るような顔で、口髭の自称・文官どのは優しげに告げた。
「……しょうがない。麗しく、賢すぎるのも仇ですね」




