155 むら雲を払うように
――意地でも、しゃんとしてやる。
普段あまり顔を出すことのない負けん気を総動員して、エウルナリアはこれでもか、と、てきぱき身支度を整えた。
一応数ヵ月間、忍びで各地を旅した身だ。『迎え』など絶対に必要ない。
(よし。髪……は、あとでレインにお願いしよう)
さっさと体の水気を拭き、用意された着替えに袖を通して扉を開ける。
予想に違わず、城の主たる闖入者殿はゆったりとソファーに身を沈めて寛いでいた。
こちらを流し見て数度、驚いたように瞬かれる。
「なんだ。早かったな」
「おかげさまで」
相手の予想を裏切れたことに達成感を抱きつつ、なぜか眉が曇った。
もっと時間がかかると思われていた。つまり、そう判断できる“経験”が幾つもあるのだ。かれには。
(? 何だろう……よくわからないけど、モヤモヤする)
明らかにどこか優れぬ様子のエウルナリアに、ディレイは何も言わない。無言でグラスを置いた。
コトン、と音をたてたグラスには、ほどよく注がれた水が揺れている。どうやら、人を手配して用意してくれたらしい。
「……ありがとうございます」
礼を述べて、対面の席に座る。
硝子の器は少し重く、両手で支えて口許に運んだ。傾けて、こく、こくと喉を潤す。
すると。
「毒味はした。妙な薬は入っていない」
「ふぐっ?!」
噎せそうになった。
慌ててグラスから唇を離し、けほっ、けほ、と咳き込む。それを面白そうに眺められた。
「疑いもしなかったか?」
「それ、は……」
「ちょっとは疑え。俺は、お前が『部屋で待ってる』と聞いたが、まず嘘だろうと思った。
客室には、確認の意味で来ただけだ。例の賊が噛んでる可能性もあったし、隠し扉のある部屋だと教える必要も…………すまんな。入浴中とは流石に思わなかった。目で楽しんで、急がせた件については謝ろう」
「あ、いえ。そういうことなら」
――――と。
はたりと気づいた。抜けている。
「……謝罪は、見たことのみですか?」
「? 他に何を?」
「えぇと」
おかしい。口づけが無かったことにされている。微かだったけど、たしかに触れられたのに。
ではあれは、かれにとっては謝る範囲ではないのか。そもそも、忘れるほどに無意識の所作だったのか。
「……いいです。別に」
ふい、と横を向いた。
「おかしな奴だな」
目許を和らげるディレイは、エウルナリアの不服の根拠をわかっているのか、わからないのか。
そのどちらにも見えた。
* * *
「では、前向きに?」
「あぁ。そっちの皇女に言われた通り、『あれ』は吹っ掛けてる。交渉に応じて、引き出せるものを引き出せば値下げするさ」
「良かったです……」
安堵に肩を下ろした。
全ての国が友好関係になることは難しい。距離が離れていれば互いへの関心は低く、さりとて得られる利潤は手にしたい。皆、我が儘なのだ。だがこの場合は。
「――いまは、ウィズルを孤立させるべきではありませんから。積極的に大陸中を巻き込みましょう。情報の伝達にあたって、差別化があってはいけません。何も、脅威はこの大陸のみでは…………ん? どうなさいました、ディレイ?」
「いや」
口許に指を当て、思案の姿勢をとるエウルナリアを、じぃっと見つめる王がいる。
頬杖をつき、正面からの凝視。睨まれているわけではないのに、たちどころに何も言えなくなる。
両者無言。
あの――? と、訊き返そうとしたとき、ふいにため息をつかれた。
しみじみと。噛み締めるように。
「どうしたら、お前の首を縦に振らせられるんだろうな……、つくづく、お前以外の女など考えられんのだが」
「……」
エウルナリアも困った。
困ってしまった。
そう言ってもらえることに、嬉しさがないわけじゃない。でも、応えるわけにいかない。その二極が内心で屹立する。拮抗する。
さらに由々しいことに、胸を占める切なさが驚くほどに甘いので、二重に付いていけない。自分は。
――……だめだ。ウィズルでは。
このひとの側では、自分は自分でないものになってしまう。
複雑な危機感は、心のなかでむくむくと波乱を含む雲のように膨れ上がった。
「私、は……」
――――コン、コン
(!)
はっと、もたらされた現実の音に立ち返る。
よかった。言わずに済んだ。
言う、何を……? と、軽く混乱しつつ「はい」と応え、足早に扉へと向かう。
解錠。開けた扉の隙間から認められたのは、やはりと言うべきか。剣呑な顔をした『お隣さん』だった。
「いらっしゃい、レイン。グラン」
ほっとしたように微笑む主を困ったように見下ろしたあと、レインは再び、うろんなまなざしを部屋の奥へと向けた。
「どうして、貴方がいるんです……?」
「俺の城だからな」
(それ、私のときと同じ)
猛烈に告げたくなったが我慢した。火に油だ。間違いない。
「よ、エルゥ。悪いな、邪魔しに来たぜ」
堂々と宣言。
飄々と片手を挙げる騎士殿にひたすら和む。エウルナリアは、二人まとめて抱き締めたくなるのをぐっと堪えた。
かれらを前にすると、心はいつだって十歳に立ち戻ってしまう。
いいのか、悪いのか――ふるふる、と頭を振った。
「邪魔じゃないよ。いらっしゃい二人とも。お茶、淹れようか?」
然りとて助かった、とも一概に言えないような。
ぱたん、と閉扉。
その後。
とりあえず諸々の迂闊さを怒られながら、丁寧に髪を整えられた。




