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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 両極のもの(三)

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155 むら雲を払うように

 ――意地でも、しゃんとしてやる。


 普段あまり顔を出すことのない負けん気を総動員して、エウルナリアはこれでもか、と、てきぱき身支度を整えた。

 一応数ヵ月間、忍びで各地を旅した身だ。『迎え』など絶対に必要ない。


(よし。髪……は、あとでレインにお願いしよう)


 さっさと体の水気を拭き、用意された着替えに袖を通して扉を開ける。

 予想に(たが)わず、城の主たる闖入者(ちんにゅうしゃ)殿はゆったりとソファーに身を沈めて寛いでいた。

 こちらを流し見て数度、驚いたように瞬かれる。


「なんだ。早かったな」


「おかげさまで」


 相手の予想を裏切れたことに達成感を抱きつつ、なぜか眉が曇った。

 もっと時間がかかると思われていた。つまり、そう判断できる“経験”が幾つもあるのだ。かれには。


(? 何だろう……よくわからないけど、モヤモヤする)


 明らかにどこか優れぬ様子のエウルナリアに、ディレイは何も言わない。無言でグラスを置いた。

 コトン、と音をたてたグラスには、ほどよく注がれた水が揺れている。どうやら、人を手配して用意してくれたらしい。


「……ありがとうございます」


 礼を述べて、対面の席に座る。

 硝子の器は少し重く、両手で支えて口許に運んだ。傾けて、こく、こくと喉を潤す。

 すると。


「毒味はした。妙な薬は入っていない」


「ふぐっ?!」


 ()せそうになった。

 慌ててグラスから唇を離し、けほっ、けほ、と咳き込む。それを面白そうに眺められた。


「疑いもしなかったか?」


「それ、は……」


「ちょっとは疑え。俺は、お前が『部屋で待ってる』と聞いたが、まず嘘だろうと思った。

 客室(ここ)には、確認の意味で来ただけだ。例の賊が噛んでる可能性もあったし、隠し扉のある部屋だと教える必要も…………すまんな。入浴中とは流石に思わなかった。目で楽しんで、急がせた件については謝ろう」


「あ、いえ。そういうことなら」


 ――――と。

 はたりと気づいた。抜けている。


「……謝罪は、見たことのみですか?」


「? 他に何を?」


「えぇと」


 おかしい。口づけが無かったことにされている。微かだったけど、たしかに触れられたのに。

 ではあれは、かれにとっては謝る範囲ではないのか。そもそも、忘れるほどに無意識の所作だったのか。



「……いいです。別に」


 ふい、と横を向いた。


「おかしな奴だな」


 目許を和らげるディレイは、エウルナリアの不服の根拠をわかっているのか、わからないのか。


 そのどちらにも見えた。




   *   *   *




「では、前向きに?」


「あぁ。そっちの皇女に言われた通り、『あれ』は吹っ掛けてる。交渉に応じて、引き出せるものを引き出せば値下げするさ」


「良かったです……」


 安堵に肩を下ろした。

 全ての国が友好関係になることは難しい。距離が離れていれば互いへの関心は低く、さりとて得られる利潤は手にしたい。皆、我が儘なのだ。だがこの場合は。


「――いまは、ウィズルを孤立させるべきではありませんから。積極的に大陸中を巻き込みましょう。情報の伝達にあたって、差別化があってはいけません。何も、脅威はこの大陸のみでは…………ん? どうなさいました、ディレイ?」


「いや」


 口許に指を当て、思案の姿勢をとるエウルナリアを、じぃっと見つめる王がいる。

 頬杖をつき、正面からの凝視。睨まれているわけではないのに、たちどころに何も言えなくなる。


 両者無言。


 あの――? と、訊き返そうとしたとき、ふいにため息をつかれた。

 しみじみと。噛み締めるように。


「どうしたら、お前の首を縦に振らせられるんだろうな……、つくづく、お前以外の女など考えられんのだが」


「……」


 エウルナリアも困った。

 困ってしまった。


 そう言ってもらえることに、嬉しさがないわけじゃない。でも、応えるわけにいかない。その二極が内心で屹立する。拮抗する。

 さらに由々しいことに、胸を占める切なさが驚くほどに甘いので、二重に付いていけない。自分は。


 ――……だめだ。ウィズル(ここ)では。


 このひとの側では、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 複雑な危機感は、心のなかでむくむくと波乱を含む雲のように膨れ上がった。


「私、は……」




 ――――コン、コン


(!)

 はっと、もたらされた現実の音に立ち返る。


 よかった。言わずに済んだ。

 言う、何を……? と、軽く混乱しつつ「はい」と応え、足早に扉へと向かう。


 解錠。開けた扉の隙間から認められたのは、やはりと言うべきか。剣呑な顔をした『お隣さん』だった。


「いらっしゃい、レイン。グラン」


 ほっとしたように微笑む主を困ったように見下ろしたあと、レインは再び、うろんなまなざしを部屋の奥へと向けた。


「どうして、貴方がいるんです……?」

「俺の城だからな」



(それ、私のときと同じ)


 猛烈に告げたくなったが我慢した。火に油だ。間違いない。


「よ、エルゥ。悪いな、邪魔しに来たぜ」


 堂々と宣言。

 飄々と片手を挙げる騎士殿にひたすら和む。エウルナリアは、二人まとめて抱き締めたくなるのをぐっと堪えた。

 かれらを前にすると、心はいつだって十歳に立ち戻ってしまう。

 いいのか、悪いのか――ふるふる、と(かぶり)を振った。


「邪魔じゃないよ。いらっしゃい二人とも。お茶、淹れようか?」


 ()りとて助かった、とも一概に言えないような。

 ぱたん、と閉扉。




 その後。

 とりあえず諸々の迂闊(うかつ)さを怒られながら、丁寧に髪を整えられた。




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― 新着の感想 ―
[良い点] ああ…! エルゥちゃんの心理が手に取るようにわかります。 すごく良く巧みにさりげなく描写されていると思います。 この感じ、めっちゃ香月好み!! エルゥちゃんに「首を縦に」ふって欲しいけど、…
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