136 こぼれ落ちてしまう
夜半。
食事を終えたレイン達からの奨めで、エウルナリアは入浴を済ませた。
ほかほかと湯気の上がる髪から大判のリネンで水分を拭き、王の主寝室へと戻る。
暖められた室内は心地よい香が焚かれ、気持ちが安らいだ。グランが城へと戻る際、マリオから託されたのだという。その心遣いに、改めて微笑んだ。
「お戻りなさいませ、エウルナリア嬢」
「ありがとうございます、ヨシュアさん。あの……言葉遣い、以前のように戻していただいて結構ですよ?」
若干の居心地悪さ。
かれ本来の、のんびりとした口調を知っているだけに少々歯がゆい。
ヨシュアは「何を仰るかと思えば」と、極上の笑みを浮かべた。
王の診察が済んでからというもの、驚くほどにこやかになった。負傷そのものはしょっちゅうなので、特に気に病むところはないらしい。
「そんなわけには参りませんよ。貴女は陛下の命の恩人で、うるわしのレガートの楽士伯令嬢でいらっしゃる。その上国意も背負っておいでだ。礼を尽くさねば、僕が重臣がたに叱られてしまいます」
「はぁ」
力の抜けた相槌をこぼし、それとなく部屋を見渡した。
エウルナリアがソファーで横になれるよう、毛布なども用意してくれている。寝台横の小卓には水差しが一つに器が二つ。一つは自分のためだろう。
――はたして、異国の娘をここまで懐に入れて良いものだろうか――と、疑問は沸いたがつとめて無視した。とにかく、今夜はディレイが目覚めたとき、側にいたい。
それは、どういう感情なのか。
そのとき考えようと思う。
エウルナリアはヨシュアに礼を告げ、すみやかに交替の旨を申し出た。
* * *
キィィ……、ぱたん。
扉の閉まる音を聞きつつ、ふと入浴前のレインとの会話を思い出す。
『――お風呂? いいよ、もう。面倒くさい』
『わかりました。僕が洗って差し上げますね』
『……ごめん。結構です入ります』
――――……と。
くすっと笑んでしまう。
おかげでずいぶんと気が緩んだ。これが何もない一日の締めくくりなら、とっくに眠っている。
(あとは、自然に乾かそう)
濡れ髪の水分をたっぷりと含んだリネンを軽く折りたたみ、暖炉前の椅子へと掛けた。
振り返る。
そっと、かれの枕元の椅子へと近づき、腰かけた。
寝台に両肘をついて注意深く覗き込む。
顔色は悪くない。とりあえずほっとした。
「……意識。今晩、戻るかな」
――――話したい。
このひとと、話がしたかった。
思いがけず長時間眺めることになった精悍な頬に、遠慮なく視線を沿わせる。
初めて見たときは、とにかく怖かったけれど――
眠るかれの額に、おそるおそる手を伸ばした。
指に触れた布はまだひんやりと冷たい。ヨシュアが換えたあとのようだ。
次いで寝具をめくり、何も身に付けていない上半身の胸部を確認する。
「!」
びくりと震えた。
(裂傷、刺し傷……こんなに)
予測を上回るほど、大小の傷痕だらけだった。
が、今回に限って言えば外傷はないはず。
ぐっと堪えて心に蓋をした。――そもそも、戦とは命のやり取りなのだから。
包帯で巻かれた下は、つん、と鼻をつく薬剤の匂いがした。広範囲に湿布が当てられている。こちらもまだ大丈夫。そのまま、そろりと上掛けを戻して視線を戻す。
「仕方ないよね。貴方が死んでしまうほうが嫌、だっ…………、え? 嘘っ。起きてたの!? いいい、いつから……??」
静かにこちらを見つめる茶褐色の瞳と、ばっちり目が合ってしまった。焦点は合ってる。間違いなく意識はしっかりしている。
かなりの動揺が走った。どうしよう――聞かれた?
「――……」
何か、喋ろうとしているが眉間が険しい。
けほ、と咳き込み、視線がサイドテーブルの水差しへと流れた。
漸く察する。
(! そうか、喉)
「待っててくださいね。今、お水を」
椅子から立ち上がり、備えられていた銀細工のゴブレットに無色透明の水を注ぐ。
両手に持って振り返ると、当人はむっつりとしていた。
(水、じゃないのかな)
小首を傾げると、あまく口の端を上げられた。仰向けになったまま、ふるふると横に首を振られる。
『起・き・れ・な・い』
唇が刻む無音を、辛うじて読みとる。
困った。
そのとき。
寝具からはみ出た腕がわずかに動き、手のひらを上にしてちょいちょい、と指が動いた。
“来い”という合図だ。
(?)
そっと寝台に近寄ると、とんとん、と手にしたゴブレットを弾かれる。その指で、みずからの乾いた唇にゆっくりと触れた。――エウルナリアの唇を、まっすぐに見つめながら。
「!!! いえ。さすがにそれは……ちょっと?」
順序だてて意味を予測した瞬間、頬が勝手に熱くなった。
待って待って、違う意味かも知れない。いやでも、ディレイだし――と、まごまごする間に右の手首を掴まれる。
決して強い力ではなかった。
外そうと思えば振り払えた。
なのに、されるがままに引き寄せられる。器を当てがわれて不承不承、一口含ませられた。
さらに。
(やっぱり!!?)
叫びは押し殺すしかない。
後頭部に抗いがたい優しさで手を添えられ、直接、水を与えさせられた。
「~~~ッ!!!」
強引にこじ開けられる。
ごくん、とディレイの喉が上下した。しかも離れない。
もう水はないのに、入念に口内を探られた。極めつけに離れる直前、軽く唇を吸われる。ちゅっと、可愛らしい音を立てられた。
「え。いや、あの。なに、を……ッッ!?」
「まだ自力で起きれそうにない。少しばかり、水を分けてもらっただけだが?」
低い、いつもより覇気に欠けるが柔らかな声。愉しげにニッと笑む顔はちっとも弱ったように見えない。
エウルナリアの怒りは、忽沸点を越えた。ただし、訴えは囁き声で。
「信じ、られない……っ。どれだけ心配したと思ってるんです? 死なせたくないと、あれだけ気負って……私の一存で、サングリードに助力を願ったのに」
「心配――俺を? お前が?」
わずかに瞳をみはり、王が呟く。エウルナリアは勝手にこぼれる涙を乱暴に拭った。
「いけませんか。中庭で、好きだと言ったでしょう? もう、嫌いでも怖くもありません。目の前で貴方が命の危機に瀕していたら、助けるしかないじゃありませんか……、それをっ」
邪魔なゴブレットはコトン、と卓に戻した。
こぼしかねない。際限なく伝う涙を拭うのに忙しい。
「うっ……ぅぅう……!」
「………………すま、ない」
とうとう、寝台に突っ伏してしゃくりあげ始めた少女に。
濡れた髪に。赤い耳朶に。
熱のせいか、温かい武骨な指が触れた。
頬にかかる一房を愛しげに、そぅ……っと、絡めとりながら。




