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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 両極のもの(二)

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136 こぼれ落ちてしまう

 夜半。

 食事を終えたレイン達からの奨めで、エウルナリアは入浴を済ませた。

 ほかほかと湯気の上がる髪から大判のリネンで水分を拭き、王の主寝室へと戻る。


 暖められた室内は心地よい香が焚かれ、気持ちが安らいだ。グランが城へと戻る際、マリオから託されたのだという。その心遣いに、改めて微笑んだ。



「お戻りなさいませ、エウルナリア嬢」


「ありがとうございます、ヨシュアさん。あの……言葉遣い、以前のように戻していただいて結構ですよ?」


 若干の居心地悪さ。

 かれ本来の、のんびりとした口調を知っているだけに少々歯がゆい。

 ヨシュアは「何を仰るかと思えば」と、極上の笑みを浮かべた。

 王の診察が済んでからというもの、驚くほどにこやかになった。負傷そのものはしょっちゅうなので、特に気に病むところはないらしい。


「そんなわけには参りませんよ。貴女は陛下の命の恩人で、うるわしのレガートの楽士伯令嬢でいらっしゃる。その上国意も背負っておいでだ。礼を尽くさねば、僕が重臣がたに叱られてしまいます」


「はぁ」


 力の抜けた相槌をこぼし、それとなく部屋を見渡した。

 エウルナリアがソファーで横になれるよう、毛布なども用意してくれている。寝台横の小卓には水差しが一つに器が二つ。一つは自分のためだろう。


 ――はたして、異国の娘をここまで懐に入れて良いものだろうか――と、疑問は沸いたがつとめて無視した。とにかく、今夜はディレイが目覚めたとき、側にいたい。

 それは、どういう感情なのか。

 そのとき考えようと思う。


 エウルナリアはヨシュアに礼を告げ、すみやかに交替の旨を申し出た。




   *   *   *




 キィィ……、ぱたん。


 扉の閉まる音を聞きつつ、ふと入浴前のレインとの会話を思い出す。



『――お風呂? いいよ、もう。面倒くさい』


『わかりました。僕が洗って差し上げますね』


『……ごめん。結構です入ります』


 ――――……と。



 くすっと笑んでしまう。

 おかげでずいぶんと気が緩んだ。これが何もない一日の締めくくりなら、とっくに眠っている。


(あとは、自然に乾かそう)

 濡れ髪の水分をたっぷりと含んだリネンを軽く折りたたみ、暖炉前の椅子へと掛けた。

 振り返る。

 そっと、かれの枕元の椅子へと近づき、腰かけた。

 寝台に両肘をついて注意深く覗き込む。

 顔色は悪くない。とりあえずほっとした。


「……意識。今晩、戻るかな」



 ――――話したい。

 このひとと、話がしたかった。

 思いがけず長時間眺めることになった精悍な頬に、遠慮なく視線を沿わせる。

 初めて見たときは、とにかく怖かったけれど――


 眠るかれの額に、おそるおそる手を伸ばした。

 指に触れた布はまだひんやりと冷たい。ヨシュアが換えたあとのようだ。


 次いで寝具をめくり、何も身に付けていない上半身の胸部を確認する。


「!」


 びくりと震えた。

(裂傷、刺し傷……こんなに)

 予測を上回るほど、大小の傷痕だらけだった。

 が、今回に限って言えば外傷はないはず。

 ぐっと堪えて心に蓋をした。――そもそも、戦とは命のやり取りなのだから。


 包帯で巻かれた下は、つん、と鼻をつく薬剤の匂いがした。広範囲に湿布が当てられている。こちらもまだ大丈夫。そのまま、そろりと上掛けを戻して視線を戻す。


「仕方ないよね。貴方が死んでしまうほうが嫌、だっ…………、え? 嘘っ。起きてたの!? いいい、いつから……??」


 静かにこちらを見つめる茶褐色の瞳と、ばっちり目が合ってしまった。焦点は合ってる。間違いなく意識はしっかりしている。

 かなりの動揺が走った。どうしよう――聞かれた?



「――……」


 何か、喋ろうとしているが眉間が険しい。

 けほ、と咳き込み、視線がサイドテーブルの水差しへと流れた。

 (ようや)く察する。

(! そうか、喉)


「待っててくださいね。今、お水を」


 椅子から立ち上がり、備えられていた銀細工のゴブレットに無色透明の水を注ぐ。

 両手に持って振り返ると、当人はむっつりとしていた。

(水、じゃないのかな)


 小首を傾げると、あまく口の端を上げられた。仰向けになったまま、ふるふると横に首を振られる。


 『起・き・れ・な・い』


 唇が刻む無音を、辛うじて読みとる。

 困った。


 そのとき。

 寝具からはみ出た腕がわずかに動き、手のひらを上にしてちょいちょい、と指が動いた。

 “来い”という合図だ。


(?)

 そっと寝台に近寄ると、とんとん、と手にしたゴブレットを弾かれる。その指で、みずからの乾いた唇にゆっくりと触れた。――エウルナリアの唇を、まっすぐに見つめながら。



「!!! いえ。さすがにそれは……ちょっと?」


 順序だてて意味を予測した瞬間、頬が勝手に熱くなった。

 待って待って、違う意味かも知れない。いやでも、ディレイだし――と、まごまごする間に右の手首を掴まれる。

 決して強い力ではなかった。

 外そうと思えば振り払えた。


 なのに、されるがままに引き寄せられる。器を当てがわれて不承不承、一口含ませられた。

 さらに。

(やっぱり!!?)

 叫びは押し殺すしかない。

 後頭部に抗いがたい優しさで手を添えられ、()()()()()()させられた。


「~~~ッ!!!」


 強引にこじ開けられる。

 ごくん、とディレイの喉が上下した。しかも離れない。

 もう水はないのに、入念に口内を探られた。極めつけに離れる直前、軽く唇を吸われる。ちゅっと、可愛らしい音を立てられた。


「え。いや、あの。なに、を……ッッ!?」


「まだ自力で起きれそうにない。少しばかり、水を分けてもらっただけだが?」


 低い、いつもより覇気に欠けるが柔らかな声。愉しげにニッと笑む顔はちっとも弱ったように見えない。

 エウルナリアの怒りは、(たちま)沸点を越えた。ただし、訴えは囁き声で。


「信じ、られない……っ。どれだけ心配したと思ってるんです? 死なせたくないと、あれだけ気負って……私の一存で、サングリードに助力を願ったのに」


「心配――俺を? お前が?」


 わずかに瞳をみはり、王が呟く。エウルナリアは勝手にこぼれる涙を乱暴に拭った。


「いけませんか。中庭で、好きだと言ったでしょう? もう、嫌いでも怖くもありません。目の前で貴方が命の危機に瀕していたら、助けるしかないじゃありませんか……、それをっ」


 邪魔なゴブレットはコトン、と卓に戻した。

 こぼしかねない。際限なく伝う涙を拭うのに忙しい。


「うっ……ぅぅう……!」


「………………すま、ない」



 とうとう、寝台に突っ伏してしゃくりあげ始めた少女に。

 濡れた髪に。赤い耳朶に。

 熱のせいか、温かい武骨な指が触れた。

 頬にかかる一房を愛しげに、そぅ……っと、絡めとりながら。


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