133 命の秤
雨は小降りになっていた。
午後六時。
常ならば夕食の美味しそうな匂いが漂い始める頃合いだが、今日はそうはいかない。
一騎――二騎。堀に渡された橋を渡る蹄の音は、心なしかくぐもっている。ドドトッ……、と荒々しく駆ける馬影は、ウィラークの城の正門をくぐり抜けた。
「……来た」
瞑っていた目を開け、すっくと立ち上がる。
暖炉に火を入れた王の寝室は、ほのかに暖かい。
華美な要素はない。当代の王の趣味なのか、ありがちな煌びやかさはなかった。
落ち着いた色調のマホガニーの飾り棚。黒檀と思わしき政務用の机。皮張りのゆったりとした椅子。棚には、ごく控えめに青で彩色した絵皿や花を挿した花瓶が飾ってある。
来客は想定していないのだろう。あくまで主が寛ぐための部屋と見受けられた。
辛うじて三人掛けのソファーと小卓はあるものの、それだけ。エウルナリアは寝室奥の大きな寝台へとまなざしを移す。
診察がしやすいよう、天蓋の布を分けて左右で留めてある。湯で温めた布で清められ、こざっぱりとしたディレイが横たわっていた。
(治療師様。お願い)
立ち上がった腹部で、祈るように両手を組む。
――素人でもできるのはここまで。
エウルナリアは、再び瞑目した。
* * *
「危なかったですね」
診察、調薬、および施薬。
すべてを流れるように終えた男性は、そっと息を吐いた。
脈をとっていた腕を下ろし、寝具のなかへと戻す。
窓の外は夕闇。雨はすでに止んでいた。
そのひとは、厳粛な面持ちで王の寝室を訪れた。
きたる、サングリード聖教会ウィズル支部建立の際は司祭となるべき壮年の男性だ。現在は隊を率いる責任者でもある。名をマリオと言った。
「どう……でした? お見立ては」
幾分か呼気を和らげたディレイの枕元にマリオが。その傍らに黒髪の少女が椅子を置き、それぞれ掛けている。
エウルナリアは心配そうに身を乗り出していた。
マリオは令嬢の可憐さに、思わず目を細める。
ぱち、と暖炉の薪がはぜる音。
部屋にいるのはディレイ、マリオ、エウルナリアの三名だけだ。
続きの間にはヨシュア、ガザック、レインが詰めているはずだが――
首肯したマリオは、穏やかな口振りで話し始めた。
「貴女がたの見立て通り、暗殺者の血に毒が仕込まれていました。“死者の香水”とも呼ばれる、非常に珍しい毒ですね。ウィズル貴族は、簡単に毒や怪しい薬に手を出す傾向がありますが」
「あやしい、薬……」
たしかに。
城に来てすぐ、盛られてしまった。しかも厨房レベルで。
一瞬、遠い目になりかけたが首を横に振る。今はそれどころではない。
「このあとは? 経過について注意があれば教えてください」
「そうですね……」
思案深げに口許に指を添え、マリオは考えを巡らせた。
「経皮毒の特徴として、呼吸器全般への影響が考えられます。咳き込んだら横を向かせて気道を確保して。なにしろ、本来ならものの数分で呼吸困難を引き起こす猛毒だったんです。
処方した薬剤はこちらに。湿布は、胸に当てたままにしておきますから。発熱もあるので額の冷し布同様、乾いたらお取り替えを。解毒の証として大量の汗をかくはずです」
その一つ一つに口を挟まず、少女は頷いた。
「わかりました。意識はいつごろ戻るでしょう?」
「早ければ今夜。元々、毒の耐性が高いかたのようですが……消耗は激しいはずです。最低三日間は安静になさってくださいね」
「はい」
――三日後。レガートからの使節も、そのころ到着するはず。
つい外交に傾きがちな思考に呆れつつ、エウルナリアはほんのりと苦笑した。
「わかりました。本当にありがとうございます。喜捨は、後日陛下から直接決めて届けさせていただきますね。あの……、せめて今夜は城で一泊なされては」
「ありがたいお申し出ですが」
落ち着いた容貌が、にこりと笑んだ。
「本隊が気がかりです。できれば明日も通常通りの活動がしたい。一個小隊、治安維持の名目で借り受けられましたし。
こう見えても、初日から不寝番は欠かしておりません。警戒は怠りませんから」
「そうですか……。あ、グランはどんな様子でした?」
『夕飯には戻る』と言っていたのに、非常事態でおじゃんになってしまった。
本隊の役に立つなら、かれにはそのまま留まってもらったほうが良いのだろうか。
案ずる気持ちが伝わったのか、マリオは安心させるように声音を和らげた。
「大丈夫。貴女の元に帰るよう言い含めます。腕のよい若者ですね。あの雨のさなか、うろうろする不審者を数名見つけまして。臆することなく、さっさと縛り上げてくれましたよ」
「まぁ」
びっくり眼の少女にくすくすと笑みほころび、マリオは立ち上がった。
「これで失礼しますが……大変ですね? 城中から王の伴侶にと、熱望されるんじゃないでしょうか。今回の一件で」
「それ、は」
――痛いところを突かれてしまった。
眉が、みるみるうちに情けない形となる。
「仰らないで。こう見えても悩みました」
「でしょうね。後悔を?」
小首を傾げて訊ねるマリオ。
エウルナリアは、ぱち、と長い睫毛をしばたいたあと、ゆっくり二拍。間を空けてふっと明け方の空のような微笑を浮かべた。
「いいえ」
――――きっと、助けないほうが後悔した。
かれを生かしたかった。
それは、外交的には危機を長引かせるだけだと、醒めた部分で警鐘が鳴っていたのに。
「死なせたくなかったので」
ぽつり、と呟いた。
薬師は意外そうに眉を上げた。
が、やがてゆるゆると若者を労るまなざしに戻る。
「なるほど。では……――ご武運を、姫君」
心を込めた一言。優雅な一礼。
白い長衣とサングリードの飾り帯をわずかに揺らし、マリオは続きの間へと姿を消した。




