132 決断する姫君
“もし、レガートの歌姫でなければ。僕との出会いもなければ、迷わなかったでしょう?”
――あの時。
くるしげなレインの声は、甘苦い葛藤に満ちていた。かれ自身とエウルナリアを否定する響きに、普段めったに顔を出さない「怒り」は容易に引き出された。
仮定に意味なんて、ない。
生まれて立つ私達に「もしも」はあり得ない。
けれど。
もし、出会っていなければ。
存在そのものが、なかったとしたら……――?
(!)
とっさに、無意味な仮定に逃げたくなるほど、拭いがたい影響を受けているのだとあとから気づいた。
善しにつけ、悪しにつけ。
「……」
唇を噛んだエウルナリアは刹那、砂粒ほどの僅差で迷った。
ためらう事実に打ちのめされた。
* * *
ザァァァーーーー……
激しい雨が硝子窓の外で滝をなしている。時おり青白い光が閃き、雷鳴が空を裂いた。先ほどまでの晴天が嘘のように荒れている。
ウィラークの城も、蜂の巣をつついたように荒れていた。
「外傷はっ!!?」
「ない! 毒だ。陛下は『返り血を浴びた』と」
押し並べて浮き足立っている。
側近。重臣。近侍に近衛、遠巻きに息を飲んで見守る官吏や女官、下男下女の類いまで。
『王が倒れた』との一報は、瞬く間にかれらを混乱の渦に突き落とした。「医官は」「看せられるか、馬鹿! ほくそ笑んで見殺すに決まってる!」など、場は喚き合いに近い様相を呈している。そんななか。
「……とにかくっ! 濡れた衣服を着替えさせてください。男手が必要です。ヨシュアさんっ?!」
「は、はい!」
人でひしめく石造りの通路。
群れる、いかつい男達の胸下までしかない小柄な少女は、涼やかな声を鳴り渡らせた。
奥まった場所から駆けつけたらしい、筆頭近侍官の青年ヨシュアに、ぴしりと視線を投げかける。抗いがたい気迫があった。
「出来ますよね。ただし、付着した血には決して触れないで。雨で大半流されていますが、色素がないだけで毒素が残留している場合は大いに考えられます。――ガザックさん、騎士様がた?」
「は」
「貴方がたも。すぐに衣服を改めてください。お運びする際、陛下に触れたでしょう? 無事なのは手袋越しだったからです。外すときは慎重に。一所に集めて密封を。後日焼却処分してください。その……、討ち取った賊の死体もです。素手で触れぬよう厳命を」
「……ははっ!」
担架に乗せられ、青白い頬に不吉なほどしずかな表情のディレイは、まるで眠るようだった。
しかし眉をひそめ、不規則な痙攣が起こるたびに瞼を震わせている。乾いた外套にくるまれている、四肢も。
決断を。
迫られたエウルナリアは、唯一腹心と呼べる恋人を呼んだ。
「レイン」
「はい、エルゥ様」
皆の邪魔にならぬよう、絶妙の立ち位置で控えていた従者が即座に答える。
かれの、こういう優秀さに何度助けられ――憧れたろう。
唇を噛みしめた少女は、迷いを打ち払うように数度頭を振ると、きっ、とまなざしを強めた。
「広場へ。サングリードの天幕まで遣いを頼みます。『毒に詳しい腕利きの薬師を寄越してください』と。
どなたか……、護衛を数名お願いします。この動きも敵に読まれているはず。かれら自身も狙われるでしょう。雨が降らなければ、天幕ごと燃やされていた可能性もあるわ。そのことを伝えて」
「御意」
す、と身を引いた少年は、すでに左手に掛けていた外套を広げ、まとっている。「ガザックさん、人員の選定を」と淡々と依頼していた。それにやや気圧されつつ、迅速に対応する古株の王の腹心に。
――ざわり、と。
今更ながら周囲に疑問が湧いた。
ディレイはすでに、ヨシュア率いる侍官らによって私室へと運ばれている。
一刻も早く濡れて血まみれの服を脱がし、清めねばならない。体温の低下も歓迎されることではなかった。
てきぱきと采配を振るい、同僚と思われていた少年に息をするように命じる、異国の薬師の少女。王の恋人とも噂されるが――
(何者だ?)
ざわ、ざわと誰何の声が広がってゆく。
「失礼。あの……、貴女は」
レインの護衛を任された年嵩の騎士が去り際、ふと足を止めて振り返り、おそるおそる尋ねた。
はた、と申し合わせたように鎮まり、集まる視線に一切動じることなく。少女はきりりと受けとめる。
――――惹きつけられる。
この世ならぬ炎のように青い瞳を輝かせた彼女は、あっさりと出自を明らかにした。
「私は、レガートのエウルナリア・バード。国意によりウィズルへ参りました。サングリードの御教えも多少は受けています。今、陛下を助けられるのは広場に駐留する本隊だけ。――さ、急いで!」




