128 葛藤※
閉扉の音のあと、主従は暫く動けなかった。
異国の城のだだっ広い薬室で二人きり。しかもご丁寧に扉を閉められてしまった。
流石に鍵はかけられていないと思う。
――思うことにしておく。
「何……考えてるんです、グラン……」
額に手を当てて呻くレイン。エウルナリアはほんの少し、下げていた視線を上に戻した。
両手を後ろ手に組んでいる。小首を傾げている。ちらちらとこちらを窺う気配に、理性がもげてしまいそうだ。
レインは、とても苦労して鉄面皮を維持した。口許には特に気合いを入れる。
(だめだ。ここで目先の可愛らしさに負けたら最後。あとでグランから、もっといいように言われる……)
呵責ない幼馴染みの人となりは知っている。
身分差を気にせず、何だかんだ言って、もう七年の付き合いになるのだから。
なので。
一旦瞑目したあと、覚悟を決めた。たしかに言わなければ伝わらない。それは、単純な好悪に限らず。まだ、みずからの裡で固まっていない言葉や疑問さえも。
「……エルゥ様は、どうしたいですか」
「わたし?」
戸惑い、揺れる気配。
何を訊かれているかわからない、とありありと表情に浮かんでいた。レインは反射でにこりと微笑む。主を追及するときの標準装備だ。
ぎくり、と少女が身じろぎした。本能と経験でわかる。逃げられる――
ばん!
とっさに、流した視線の側へと棚めがけて左手をついた。
荒々しく退路を断たれた姫君は、軽く絶望の色を滲ませる。それでも答えを口にした。
「私の意思は変わらないわ。ウィズルを――……かれを止めたい。戦争なんて馬鹿げてる」
「それだけ? 他には? エルゥ」
「…………」
従者の少年が、主から敬称をとるのは二人っきりのときだけ。想いを通わせたときからの不文律。
エウルナリアは唇を噛み、右手で左の上腕を押さえるような――どちらかと言うと、防御の姿勢をとった。無意識に胸元を庇っているようだ。言葉を探しているようにも、機嫌を損ねたようにも見える。
む、とレインの眉がひそめられた。
(こんなエルゥ様は見たことがない。……僕の知らないこの方を、あの男が作ったってのは、よくわかった)
一言でいうと自分の領域を。もっとはっきりいうなら『自分のもの』と思っていた女性に痕を付けられたような苛立ち。
自分勝手な嫉妬だ。そして、それを持て余している。
レインは懸命に衝動を抑えた。ぶつける、わけにはいかない。
深い呼気で感情に風穴を空ける。内に籠る怒気を外へ逃がす。
ぴくり、と少女の肩が震えた。
「……怒ってる?」
「怒ってます。不甲斐ない自分に怒ってます。もっと付け足すなら、貴女に心変わりさせつつある自分の指をへし折ってしまいたい」
「!!! だめでしょ、それ!」
「ものの喩えです」
「……喩えでもやめて。だめだよ、そういうの」
「すみません。でも」
日が傾いたのかもしれない。ランプに灯りを点していない室内がにわかに翳った。
暗くなる。
向かい合う少女の白い面に、更に影が落ちるほど近寄る。左手は、手のひらから肘までを棚に密着させた。俯く。
(……こんなときでも、綺麗だな)
伏し目がちな青い目を飾る、長い黒々とした睫毛。愁い、迷い、怒り、かなしみ――そのどれもが従来の彼女とはほど遠い。なのに。
堪らずに、こつん、と額を合わせた。右手は脇に下ろしたまま。触れられない。触れてはいけない気がした。
「――惹かれてるでしょう? ディレイ王に。かれと居る貴女は生き生きとしてる」
「やめて」
「やめません。貴女はわかってない。もし、レガートの歌姫でなければ。僕との出会いもなければ、迷わなかったでしょう?」
「……っ……ばっ……!」
パンッ
乾いた音が宙を裂いた。痛みはあとから訪れた。
「!!」
「――ばかッ! 信じ、られない……!!」
わなわなと、血の気の失せた花びらの唇が戦慄いている。
全身に走る小刻みな震え。
怒りが陽炎となって、小柄な体から立ち上るようだった。――一体、どこにこれだけの烈しさが。
レインは打たれた頬を押さえることもできず、灰色の瞳をしばたいた。『信じられない』。同感だった。
(僕……? え、いま、何を)
何よりも、自分への嫌悪と驚きがすさまじい勢いで膨れ上がってゆく。むかむかと黒いものが渦巻く。それが、胸下で凝る。
エウルナリアは身を絞るように、抑えた声量で言い募った。
「見くびらないで……! そもそもそんな仮定に、意味なんてない。どうしたの、レイン? しのごの言わずに本音で話そうよ。私もうまく言えなかったけど、こんなの、おかしい……!
――叩きたくなんて、なかったのに……ごめん。手を、上げてしまって。最低。失格よ、主として。あなたの恋人としても」
「すみません」
「謝らないで。私もこれ以上は謝らない。お互い、ものすごく失礼で不愉快なことを言ったし、したわ」
「……はい」
眦を強めた少女は、瞳の青を深くした。
――――胸が疼く。痛む。これは、一体何なのか。
「……」
ふと、相対する空気が緩んだ。怒気が萎んだような。
「だから、泣かないで。あなたを、ちゃんと大事にしたいのに。ちっとも出来てないのが悔しいよ。教えて? どうしてあんなこと言ったの?」
「泣いて、なんか……」
「泣いてる」
(……?)
顔が熱いのは、思いがけぬ繊手に小気味よく張られたからだ。自身への不可解さ、不信感からだ。
一向に認めようとはしない少年に、エウルナリアの左手が動いた。
そっ……と、横を向いたままの顔を正面に向けさせる。さらに距離を詰める。両手で挟み、むりやりに視線を絡めると、ほろ苦く笑んだ。
おもむろに、伏せられた睫毛が近づく。
無条件に見とれる間に、ぐいっ、と首から上を下向きに引き寄せられる。
「エル」
レインは、つま先立ちになった主の少女に、吐息と声を奪われた。




