125 従者の熾火(おきび)
“陛下に、とうとう恋人ができたらしい”
まことしやかに流れた噂は、ささやかな衝撃と喜びを以てウィラークの城と城下を駆け巡った。
異国より訪れたうつくしい薬師の少女。
――その連れ、二人を除いては。
* * *
「このままじゃ、ウィズル中に広まんのも時間の問題だぜ。噂の方が先にレガートに着くんじゃねぇの?」
よいしょ、と麻の大きな袋を右肩に担いだ赤髪の青年はぼやいた。見た目よりは軽いらしい。
聞き咎めた栗色の括り髪の美少年は、じつに醒めた視線を手元の書類へと落とす。淡々と品目のいくつかを訂正し、小さなチェックを付けていった。
「根も葉もありません」
「そうか? “火のない所に――”って言うだろ」
「何が言いたいんです」
「さぁ。何だろうな」
「……」
思わせぶりな微笑。鋭い宵闇色のまなざしを残し、グランはさっさと歩き始めた。書類を小脇に挟み、自身も瓶類を詰めた布袋を片手にひっ掴むと忘れ物がないか確認。あとを追う。
バサッ――
天幕の布地を上げた。
目を射る光に顔をしかめる。
そう。しかめっ面なのは眩しいせいだと自分に言い聞かせながら。
「やぁ。目当ての薬はわかった?」
「おかげさまで」
ざわ、ざわざわとウィズル訛りの大陸公用語が飛び交うなか、すっきりとしたレガートの発音が耳に飛び込んだ。
旅程をともにしたサングリードの一団の責任者。薄い色素の金髪を総まとめにして後ろに流した壮年の男性は薬師然としている。
ウィズルの古都ウィラークに、かれらが臨時市を構えて今日で四日目。広場は安価で信頼性が高いと評判の薬や診察目当ての客足が、明らかに増えている。
特設天幕に、多種多様な薬が山と積んである。そのなかから、城の発注分を選んできたところだ。
(まだ半分だけど)
――所詮は付け焼き刃の知識。
絵図鑑や辞書を頼りにすすめる薬室の在庫整理は思った以上に大変で、作業は遅々としていた。
が、レインの主曰く『建国祭までは、まだ日数があるもの。楽士として滞在したらもっと目立っちゃう。がんばりましょ?』……とのこと。
つまり、サングリード本隊からの応援人員は頼めない。
たしかに、広場の本隊は忙しそうだった。
責任者の男性も陣頭指揮にあたり、人手の足りないところを見つけては臨機応変に駆けつけている。
その合間を縫っての飛び入り王城組の補助なのだ。むしろ申し訳ない。
会話を続けていたグランは爽やかな笑顔を浮かべ、そつなく退出の挨拶を述べていた。
いつになく口が回らない様子のレインは、それを親友の背から少し離れた場所で、ぼぅっと眺めている。
「我々はまだここにいる。困ったことやわからないことは、いつでも訊きにおいで」
「はい。失礼します」
――――困ったことやわからないこと。
(あるよ、確実に)と、従者の少年は内心独り言ちた。
* * *
「おかえりグラン、レイン。お遣いありがとう」
城の北側に位置する薬室。大きくとられた窓から自然光がうっすらと射し入るなか、黒髪の美少女が振り向いた。
もう、容貌を隠しもしない。
なぜかその傍らに。
「ご苦労だったな。市はどうだった? 旧神殿の奴らは妨害に来ていなかったか」
砂色の長髪を、無造作に背で束ねた偉丈夫が悠々と佇んでいた。こうして眺めると妙に絵になる。その印象を抱いた事実に、脊髄反射でいやになる。
「いいえ。平和なものでした。流石と言うべきか、ウィズルの兵は練度が高い。広場の要所に配置されてましたし。薬市だけでなく他のところも……かな。荒れてる様子は全くありませんでした」
「結構だな。まぁ、その辺に荷は置いて食事でも摂って来い。俺とエウルナリアは済ませた」
「……」
まただ。カチン、と来たレインは一言も発することができない。
(べつに愛称を呼ばれてるわけじゃない。なのに、なんでディレイ王があの方をちゃんとした名前で呼ぶと、もやっとするんだ……?)
立ったまま。
中二階の奥、壁一面の薬棚を前に作業に夢中らしい少女は微妙な顔色の少年に気づかない。左手の絵図鑑をパラララ……と、繰りながら階下の先、入り口に荷を降ろすグランとレインに声をかけた。
「ん。食べておいで。二人とも真面目だから、広場で買い食いもしてないんでしょ? お城の食堂、お肉料理もちょっと変わってて美味しかったよ。少し休憩しても大丈夫……って。ディレイ、やめてください。邪魔――」
「いっこうに休もうとせんお前が言っても、何ら説得力がないが。
行ってこい。一時間したら俺も発たねばならん」
「わかりました。行こーぜ、レイン」
「……はい」
せっかく目当ての頁にゆき着いたところを奪われ、パタンと閉じられてしまうエウルナリア。
閉じたと見せかけ、手持ちの栞を挟んだらしく「そら」と再びひらいて差し出すディレイ。
あくまで役目をこなすグラン。
辛うじて返事をするレイン。
(これじゃ、ぱっと見、噂通りじゃないか……!!)
――と。
どうやら、姫君の手腕で戦端がひらかれるのは回避できたらしいにも拘わらず、レインの胸中は、むかむかと燻り続けている。




