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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 両極のもの(一)

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124/244

124 このひとに、寄り添えるのは

「考える……時間をくれないか」


 天を仰ぎ、片手で目許を塞いでディレイは呻いた。「いいですよ」とエウルナリアは答える。


 本来なら、畳み掛けたほうがいい。怯んでくれたのなら追撃を。けれど、そうはしたくなかった。

(甘いかな)


 ふと、肩を覆う重みに気づく。

 しっかりとした仕立ての上着は、黒いサテンの裏地がすべらかで、表面は渋みのある砂の色を含む薄緑。生地そのものも厚手だが、首回りや肩、胸元の留め具に施された装飾が重いのだと察した。

 有事の際は、それとなく着たものの命を守ってくれそうな。


 衣服一つとっても、このひとを守りたいと願う、この城の人びとの想いが透けて見える。

 艶消しの銀。或いは鋼だろうか。襟から肩へと繋がる細鎖に視線を落とし、指を這わせた。

 無意識に思うことは、すぐに口をついて出てしまう。


「――ウィズルに入ってからずっと思っていましたが。民に愛されていますね。ディレイ()()は」


「尊称は、やめろと言った」


 相も変わらず天を仰ぐ姿勢のまま、ディレイは思い通りにならない少女を嗜めた。


 エウルナリアは上着をとると、衝撃収まらぬ様子のかれに、そぅっと上掛けのようにそれを被せた。腕にかかっていた重みは手を離したとたん、呆気なく消え失せる。


「お返しします。これは、貴方の身を守ってくれそうですから」


「……要らんか?」


 目許から手を外し、どことなく傷ついた色の浮かぶ瞳を痛ましく見つめる。

 やっぱり傷つけてしまったな、と。

 エウルナリアはあえて微笑んだ。


「充分、温めていただきました。それに……ディレイは、今もあちこちから命を狙われているのでしょう? 主に、先王と(よしみ)を通じていた一派の生き残りや、貴方に王権が移ってからは旨味を吸えなくなった(やから)の一定層に」


「……つまらん」


「? ディレイ?」


 す、と物言わず掛けられた上着の袖に腕を通し、素早く身にまとうディレイ。軽々としたものだった。


「俺は、心底お前を温めたかった」


 視線を地面に落とし、気持ちを過去のものとして呟く青年王に。

 ――寄り添ってしまいたくなるのを、ぐっと堪える。


(だめ。これは私がすべきことじゃない)

 すぅ、と息を吸う。

 あたらしい息吹が生まれるように。このひととの関係に何か、新たなものを見いだせるように。


 祝福と、なるように。



「歌って……いいですか?」


「は?」


 拍子抜けしたような、研ぎ澄まされた端正な面差しが可笑しい。エウルナリアは今度こそ、本心から笑んだ。


「今ではありません。この国の建国祭……その式典で。幸い専属ピアニストを連れています。必要であれば、我が国で近衛府の儀典隊に引っこ抜かれかねないほど、きらきらしい音色のトランペット楽士も」


 さらり、と衣擦れの音とともに立ち上がる。座るディレイの前に立ち、気負いなく手を差し伸べた。


「あと五日もすれば、レガートから例の招待に応じる(むね)を携えた使節が参ります。要らなければかれらとともに一旦帰国しますが。もしも、ご入り用なら」


 動かぬ大きな右手を、みずから腰を落として迎えにゆく。両手で包んで胸の高さまで掲げ持ち、染み込むように語りかけた。



 ――――真に、温めて欲しいのは。


「それまでお側にいます。あくまでサングリードの見習い薬師としてなら、喜んで滞在しましょう。式典当日は歌い手として。

 ……どうぞ、その間にお決めください。この国の進退を。ついでに私の心を手に入れられるかどうか、試してごらんになるといい。身体はむりですが」


 ぽかん、と。ひらいた精悍な口許からは、ただ一言がこぼれ落ちた。


「姫」


「エルゥ、と」


 未だ立ち上がらぬ西国の若き王に、歌姫は甘やかな鈴音(れいいん)の声でささやいた。

 秋花(しゅうか)ほころぶ、この庭のどれよりも華やかに。



「親しいひとは、皆そう呼びます。“エウルナリア”は……長いでしょう?」


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