124 このひとに、寄り添えるのは
「考える……時間をくれないか」
天を仰ぎ、片手で目許を塞いでディレイは呻いた。「いいですよ」とエウルナリアは答える。
本来なら、畳み掛けたほうがいい。怯んでくれたのなら追撃を。けれど、そうはしたくなかった。
(甘いかな)
ふと、肩を覆う重みに気づく。
しっかりとした仕立ての上着は、黒いサテンの裏地がすべらかで、表面は渋みのある砂の色を含む薄緑。生地そのものも厚手だが、首回りや肩、胸元の留め具に施された装飾が重いのだと察した。
有事の際は、それとなく着たものの命を守ってくれそうな。
衣服一つとっても、このひとを守りたいと願う、この城の人びとの想いが透けて見える。
艶消しの銀。或いは鋼だろうか。襟から肩へと繋がる細鎖に視線を落とし、指を這わせた。
無意識に思うことは、すぐに口をついて出てしまう。
「――ウィズルに入ってからずっと思っていましたが。民に愛されていますね。ディレイ陛下は」
「尊称は、やめろと言った」
相も変わらず天を仰ぐ姿勢のまま、ディレイは思い通りにならない少女を嗜めた。
エウルナリアは上着をとると、衝撃収まらぬ様子のかれに、そぅっと上掛けのようにそれを被せた。腕にかかっていた重みは手を離したとたん、呆気なく消え失せる。
「お返しします。これは、貴方の身を守ってくれそうですから」
「……要らんか?」
目許から手を外し、どことなく傷ついた色の浮かぶ瞳を痛ましく見つめる。
やっぱり傷つけてしまったな、と。
エウルナリアはあえて微笑んだ。
「充分、温めていただきました。それに……ディレイは、今もあちこちから命を狙われているのでしょう? 主に、先王と誼を通じていた一派の生き残りや、貴方に王権が移ってからは旨味を吸えなくなった輩の一定層に」
「……つまらん」
「? ディレイ?」
す、と物言わず掛けられた上着の袖に腕を通し、素早く身にまとうディレイ。軽々としたものだった。
「俺は、心底お前を温めたかった」
視線を地面に落とし、気持ちを過去のものとして呟く青年王に。
――寄り添ってしまいたくなるのを、ぐっと堪える。
(だめ。これは私がすべきことじゃない)
すぅ、と息を吸う。
あたらしい息吹が生まれるように。このひととの関係に何か、新たなものを見いだせるように。
祝福と、なるように。
「歌って……いいですか?」
「は?」
拍子抜けしたような、研ぎ澄まされた端正な面差しが可笑しい。エウルナリアは今度こそ、本心から笑んだ。
「今ではありません。この国の建国祭……その式典で。幸い専属ピアニストを連れています。必要であれば、我が国で近衛府の儀典隊に引っこ抜かれかねないほど、きらきらしい音色のトランペット楽士も」
さらり、と衣擦れの音とともに立ち上がる。座るディレイの前に立ち、気負いなく手を差し伸べた。
「あと五日もすれば、レガートから例の招待に応じる旨を携えた使節が参ります。要らなければかれらとともに一旦帰国しますが。もしも、ご入り用なら」
動かぬ大きな右手を、みずから腰を落として迎えにゆく。両手で包んで胸の高さまで掲げ持ち、染み込むように語りかけた。
――――真に、温めて欲しいのは。
「それまでお側にいます。あくまでサングリードの見習い薬師としてなら、喜んで滞在しましょう。式典当日は歌い手として。
……どうぞ、その間にお決めください。この国の進退を。ついでに私の心を手に入れられるかどうか、試してごらんになるといい。身体はむりですが」
ぽかん、と。ひらいた精悍な口許からは、ただ一言がこぼれ落ちた。
「姫」
「エルゥ、と」
未だ立ち上がらぬ西国の若き王に、歌姫は甘やかな鈴音の声でささやいた。
秋花ほころぶ、この庭のどれよりも華やかに。
「親しいひとは、皆そう呼びます。“エウルナリア”は……長いでしょう?」




