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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 両極のもの(一)

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118 会談(後)

 きし、と執務机の椅子が軋んだ。

 ディレイは上半身をしなる背凭れに預け、熟考の姿勢でどこか遠くの一点をうっすらと見つめている。

 背で緩くまとめた砂色の長髪。その後れ毛を、億劫そうに右手でかきあげた。


「……ガザック。今までのところは書き留めたか」


「は」


 室内に満ちる筆記具の滑る音が途絶えたことを受けてか、おもむろに書記官を呼ぶ。

 呼ばれた官――ガザックは至って簡潔に答えた。実直そうな振る舞いと声音におそらく腹心に近い相手なのだと悟る。


 エウルナリアはちらり、とレインを仰ぎ見た。


「(いつの間に、あんな大事なことお父様から託されてたの?)」


 ぱくぱく、と口を開閉し、こそこそと声を殺す。

 うるわしい外見の従者の少年は「ん?」と目を瞬き、ふふっと首を傾げた。やたらと色気が漂う。そのまま腰を折り、主の少女の耳へとそっと顔を寄せた。ディレイ達からは見えぬよう、片手で口許を隠している。


「(…………()()()()ですよ。似たことを伺ったことはありますが。今この時に言えとはひとことも命ぜられていません)」


「!!?」


 何それ。何それ、なんなのそれ??!

 え、じゃああの薬室でのやり取りから、それをしゃあしゃあとディレイ(あのひと)にぶつける気だったの……? と、エウルナリアは盛んに瞬きを繰り返し、口を半開きにした。その無防備さに、おや、とレインが微笑を深める。


「(頑張りましょうねエルゥ。正念場ですよ)」


 耳朶(みみたぶ)に意図せぬ吐息と、おそらくは意図的な唇がわずかに掠める。


「ッ!」


 思わず、びくん、と反応してしまった少女に柔らかな視線を落とし、一つ笑むと栗色の髪の少年は再び臨戦態勢となった。

 姿勢を正し、しずかに何事かを話し合うディレイとガザックに注視している。

 エウルナリアも唇を噛んで前に向き直った。つとめて平静を装う。




 が。


(もう。……レインってば……もうっ……!)

 眉尻が下がり、閉じた口の端が下がってふるふると震える。

 怒っているわけではない。気が緩んだ瞬間の驚きと嬉しさ、込み上げる感情が激しく複雑すぎて、涙に集約されそうなのを必死に我慢しているのだ。


 ――いつも。

 二歩も三歩も前をゆくレインに自然と助けられてしまう。

 つい、頼ってしまう背中を見るようで。届かないと追いかけているようで。

 並びたい、かれに認められる主になりたいと心を奮わせた幼い日。長じてからは、かれの想いに足る女性でありたいと願った。


 ――敵わないな、と今また、心が震える。


 震えて、目を瞑った。




   *   *   *




 結局、ウィズル側の解答を出すには猶予が欲しいと通達された。


『サングリードのもの達と来たのだろう? 市場で薬市を立てていると聞いた。使者を立てて報せておいてやるから、しばらく逗留するといい』


 すまんが、仕事がまだ二、三ある――そう言い置いて、あのあとディレイは拍子抜けなほどあっさりと部屋を出て行った。

 残された三名の世話を任されたらしいガザックは、書類の角をトントン、と机で揃えながら申し訳なさそうに述べた。


『まだ、日は高いですが……いかがなさいますか? 湯浴みの手配もできますが。長旅でお疲れでしょうし。よろしければ、客室までお連れいたしますが』


 顔を見合わせた幼馴染み三名。


『では……お言葉に甘えて』


 と。各自、夕食までは待機の運びとなった。







「……ん……」


 自分の声で半覚醒する。

 ほわほわと、意識が闇に溶けていることに気がついた。


 横たえた身体が不自然に片側へと沈む。瞼が重い。ひらかない。通された部屋で妙な気だるさを感じ、そのまま寝台に(ちょっとだけ)と転がった。そこまでは覚えている。


 なぜだろう。何か、大事なことを忘れているような気がする……



 思考に紗の幕がかかったみたい。

 まだ眠い。でも寝てはいけないと、細い細い理性の線が、ちりちりと焦燥をかき立てた。

(だめ。起きないと――……起きないと?)




 そのとき。

 ふわりと誰かの重みを察し、心細かった身体は易々とそのひとを受け入れた。


(レインだ)

 根拠なく思い当たり、夢見心地でふふっと笑む。


 伝わる、苦笑の気配。

 最初は触れるだけの温もりがやさしく頬に。額に一度ずつ落ちて。何度か唇を(ついば)むと、やがてゆっくりと絡めとられるような熱いものへと変わった。容赦なく吐息が奪われる。


 仰向けた右手を押さえるような、大きな手。互いの舌を、存在を貪るような甘やかさの合間に漏れる切ない息づかい。

 どうにかなりそうなほど気持ちいい――のに、胸のなかが疼いて、くるしい。


 するり、と、左の腿を直接撫で上げる()()()()()()()()手と指を感じた。


「…………ん……んん、ンッ!?」



 ――――ちがうっ。

 身体が『違う』と、相反する感情のはざまで悲鳴をあげた。


 心臓に悪い、激しすぎる驚愕とともに冷水を浴びたかのような勢いで意識が急浮上する。

 なにか、物凄く取り返しのつかない事が起こってる。確信が閃き、ひらいた視界にその()()を映す前に。



「やっと起きたか姫。……おはよう。夜だが」


「え……、ディ、レ……? なんで……?」



 途切れ途切れの、あえかな声で敬称すら省いてしまった事実に気づけない。それどころではなくて。


 天井を背に。目の前に。

 夢のあまい余韻のすべてを払拭するに足る、落ち着き払った低い声の主が。あろうことか悠然とこちらを見下ろし、覆い被さっていた。


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