11 戻る日常、しずかな変化(6)※
風が、さやさやと木立の葉を揺らす。春の晴天。学院の中庭を歩きながらグランは、左斜め前を歩くエウルナリアの背中でふわふわと靡く黒髪に、そっと手を伸ばした。
するり。
柔らかに波打つ長い髪は、ちっとも指に引っ掛からない。前を向く彼女は、いっこうに気付かない。
(これはこれで、つまんねーな…)
もう成人なのだし、いつまでも彼女を困らせて楽しかった、あの頃のような気持ちからの行為ではない。
とはいえ、先の遠征では自分の預かり知らぬ間にひどい出来事もあったのだ。知らない、では大切なものを守れない―――レインが主の少女にぶつけた台詞を苦く思い出す。
(結局は、いつもあいつなんだよな。先んじてるのは)
独奏者も。
大切で、大好きなエウルナリアの一つしかない気持ちも。
避けていたはずの従者に連れられ、練習室に戻った彼女の青い瞳の縁と頬は少し赤かったものの、張り詰めていた痛々しい気配は和らぎ、消えていた。
それを為したのはレインなんだろうと、息をするように理解する。
ちくり、と。
大切な二人が並ぶ姿に胸が痛んだ。
彼女の驚いた顔も、拗ねた顔も好きで――見たくないのは悲しそうな顔や強ばった顔。
これ以上うっかり触れてしまわぬよう、両手はズボンのポケットに突っ込んでおく。
けれど、何か話したい――声が聞きたいと思って開いた口からは、自分でも驚くほど素っ気ない声が溢れた。
「エルゥはさ、俺達に言わないだけでレインを選んでるよな。でもそれ、大丈夫なの?将来的に」
ぴくっと反応した少女が突然、足を止めた。追い付き、右隣に立った赤髪の幼馴染みを見上げる青い瞳には、すこし傷付いた色彩がある。
―――…ぞく、とした。
(あ……だめだ、これ)
エウルナリアは、次の時間は美術棟の四階研究室でロゼルの絵のモデルになると言っていた。引き留めるほどの時間はない。
自分の元に留まらせてはいけない理由を、必死に探す。
きゅ、と唇を噛みしめたあと、素早い瞬きで視線を断ち切った。
「……ごめん。変なこと言った。忘れて」
ふいっと、ぶっきらぼうに告げてから顔を逸らし、彼女より前に進み出る。
すぐに、軽くて可憐な足音が追って来るのが聞こえた。――そのことに思わずホッとする。自分の勝手さに苛立ち、胸の裡が疼く。
グランは、前を向いて緩やかな歩調のまま、目的地に着くまでとうとう一度も振り返らなかった。
* * *
「へぇ。相変わらずだな、グランは」
「…あいかわらず?」
そう、と頷いた男装の少女は、手元の木のパレットで絵の具を混ぜた。イーゼルによって立てられた、大人の上半身がすっぽりと納まりそうな白い画布――そこには、既に木炭で下絵が描いてある。
ロゼルにしては珍しい。モデルが長時間座っても疲労が少ないだろう、一人掛けの臙脂色のソファーに行儀よく座るエウルナリアの姿が、そのまま写し取られていた。
美術専科のひとつ、“肖像画”である。
普通は、二学年の間に終わらせておく課題らしいが。……ロゼル曰く、『そのまま描いて何が楽しいの』とのこと。
彼女は昔から、モデルを前にして違う表情・違うポーズの絵をさらさらと描く。
なるほど、単なるスケッチではなく肖像画の場合、作品と向き合う時間も長くなる。退屈なのだろう…と、親友である黒髪の少女は察した。
「エルゥ、また綺麗になったね。邸を出たことと関係ある?」
溶いた色は、クリーム色。背景色を大きめの平筆にとったロゼルは、慣れた様子でそれを画布に伸ばした。座るエウルナリアのうしろ、壁の色の基本色。さらにここから濃淡を付けるが、今はしない。
かこん、と、足元のたくさんの筆が入ったブリキのバケツに、使用済みの平筆を入れる。毛の部分は上を向いている。様々な形状、大きさの花束のようなそれらから――今度はやや小ぶりな平筆を手に取った。再びパレットで行われる色の調整。今度は、肌色だ。
油絵は基本的に、濃い色から順に重ねる。ゆえに、色白のエウルナリアの影の部分に合わせたそれは、濃い象牙色にほんの少しずつ、茶や赤、青を混ぜたもの。
ちら、ちらと何もかもを見透すような深緑の視線が、画布とエウルナリアとを行き来する。
居たたまれなくなって、少女は目線を落とした。少し、俯く。
「全然、きれいじゃないよ。話したでしょ?」
「あぁ、ウィズルの将軍上がりね。ご愁傷さま」
うっすらと口許に笑み。瞳は半目。ロゼルは一瞬で、冷ややかな表情になった。
十六歳になったキーラ家の令嬢はまだ少年のように清らかで、凛としている。腕捲りしたシャツから覗く腕と手首の細さ、寛がせた衿元の首は確かに女性らしいのだが、どこか危ういうつくしさがあり、中性的だ。
(一部の下学年女子から、すごく人気があるの知らないのかな……? ロゼルのほうがもっと、ずっと綺麗になったのに)
困ったように眉を下げ、微笑むエウルナリアに。焦げ茶の長い巻き毛を無造作に結んだ麗人は、ふ、といつもの微笑いを浮かべて問うた。
「エルゥ、今日、泊まりにいっていい? 私も寮には興味がある」




