108 隠れる姫君、騎士二人
河船がゆるゆると湖面を滑りゆく。
波頭に泡立つ飛沫は最小限。真上から見ても横から見ても全体的に細い葉のような、洗練された型だ。
ただし大きい。並の大型商船ほどはゆうにある。
途中、レガートへと向かういくつもの船影と擦れ違った。どの船も両先端と縁にあかあかとカンテラを灯している。
察するに、湖西部全域はまだ霧が濃い。船同士の衝突を避けるためと見てとれた。
(西の航路……、初めてだわ。文献では確認済みだけど、やっぱり往き来そのものが多い。昔から、今も。ひとや物がたくさん行き交ってるんだ)
厚手のマントを着込んだエウルナリアは、右手でフードの端を押さえつつ進行方向に目を凝らした。
船腹の右舷。つめたい霧が頬を撫でる甲板に、三名は立っている。
左右をレインとグランに守られ、波のリズムで揺れる足元によろめいたりせぬよう、しっかりと船縁につかまるエウルナリアは、傍目にはその小柄さが際立った。体の線は出ない衣服だが、華奢な少女だとすぐに判別できる。
東から晴れつつある霧。
船は、後背から朝陽を受けていた。
真新しい光に照らされ、白くけぶる薄靄をかき分けながら、船――アローリナ号は蒼い波間を進む。
舳先を飾る彫像は、銀に着色された星十字を誇らかに掲げる乙女。
船は、サングリード聖教会が所有・管理するものだった。
“アローリナ”とは、かつての二代皇帝の妃の名。教会の創始者、聖サングリードの一人娘の名だ。聖教会の船には、必ず過去の聖人の名が冠されているという。
天候や航路然り、船然り。
エウルナリアは、ぼんやりと学問上で得た知識と経験とを合致させていた。
* * *
「……今朝さ。アルム様が突然うちにやって来て。もー、家族全員てんやわんやだったんだぜ。俺は『騎士業の一環で西に発つ』としか言ってなかったから」
「だよねぇ」
ごめんね? と隣から覗き込む青い瞳に、グランはきつめの紺色の双眸を和ませた。「――いいって」と呟く声は、どことなく嬉しそうだ。少女の左隣に立つレインは、穏やかな無言を貫き通している。
三人とも異なる旅装だが、上からはサングリードのお仕着せの白いマントを纏っていた。
レインとグランは帯剣しているものの、部外者の目があったとすれば、仕事をさぼる聖職者のように映ったろう。――――実際には、同行する面々は全員サングリードの教義に仕える人びとなので。
聖職者であるかれらは船室に集まり、めいめいに荷分けや旅程確認等の雑務をこなしていた。客分でしかない三名は、そういった場に下手に立ち入っては妨げになると予想する。
ゆえに、せめて邪魔にならぬよう、仲良く船縁で固まっている――と、言えなくもない。三名は引き続き、煩くない程度の声量を心がけて会話を続けた。
辺りは波の音と水鳥の鳴き声、水夫らの立ち働く気配に満ちている。そのため声量は自然とmf。出港前に比べれば普通になった。
「――『ご子息を、我が娘の任務のために借り受けることをご了承ください』って。すげぇ丁寧にうちの親に頭下げてくれてた。あの、筆頭楽士伯バード卿そのひとがさ。お袋は卒倒寸前。親父は感極まっちゃって。『わかりました。命に代えましても……!』とか、あのでっかい形で叫んじまうし」
エウルナリアは、くすくすと笑った。今朝のシルク商男爵家の様子が目に浮かぶようだった。
「……シルク卿は、今も“大きな赤毛おじさん”?」
幼い頃、勝手につけたあだ名をそっと口にすると、つられたようにグランも破顔した。
「そう」と一言。一頻り笑う。
レインは黙ったまま、何とも言えないまなざしで主の少女を流し見た。
(貴女ときたら、グランの父君にまでそんな呼称を…………?!)と、ありありと秀麗な顔に書いてある。
ひととき、船縁はのどかな空気に包まれた。
――――が。
「二人とも、ユシッド様に見せていただいた一覧、覚えてる?」
「一応」
「一句残らず」
両者それぞれの解答。姫君は、すぅっと表情を改めた。
「アルトナの間は大河沿いに進めるから大丈夫。でもウィズルからは川幅が細い。上陸せざるを得ないわ。……基本、宿には泊まれない。あの一覧にあったお家の方々しか頼れないのよね?」
「あぁ」
こくり、と、赤い前髪をなぶられた青年が頷く。
風が出てきた。
話し込む間に、すっかり夜明けを迎えたようだ。マストに張られた帆は、ようやく元気よくはらみ、追い風を捕まえつつある。
往路――ウィズルの西都ウィラークまでの日程は、二週間弱。
ぎりぎりまでサングリードの船に乗せてもらえるのはありがたかった。その後の、確かな足掛かりも。全てを手配してくれたアルユシッド皇子には感謝しかない。
(絶対……、あのひとに啖呵たたきつけてやるわ。今度こそ!)
きん、と敵意に似た毅さを滲ませて遠くを見据える少女に、ぽんぽん、とその頭を撫でる赤髪の騎士。
「軽々しく触れないでください」
ばしん! と、その手を栗色の髪の少年に叩き落とされるまで、旅の初日とは思えぬほど。
三名は、見事に『いつも通り』だった。




