107 うたわずとも、歌長と歌姫
出発の未明。
レガティアの西港には一艘の河船が寄せられ、辺りには霧が満ちていた。
ギィイ……、ギィ、と耳馴れた船の揺れる音。それを桟橋で聞く。
レガート島の東西南北にひらかれた港で、西は南に次いで規模が大きい。食料はアルトナ。石材はウィズルと建国当時から謂われる所以だ。
そこに。カラカラ……と車輪と馬の蹄の音が鳴り響く。止まる。御者に開けられた扉から降り、姿を現したのは――
「お父様!!?」
「おはようエルゥ。それにただいま」
到着を待っていたのは、正式に歌姫エウルナリアの専任騎士として拝命されたグランだったが、霧避けの灰色のマントをあざやかに翻してにっこり笑う歌長アルムに場がざわめいた。
たじ、と後ずさるエウルナリア。レインも「うわぁ」と小さく口のなかで叫んでいる。とても珍しい反応だ。その声は、傍らに立つ主にだけ届いた。
次いで、黒塗りの馬車から赤い髪が見える。少女の父に伴われた形になるグランの顔色は――意外にも普通だ。アルムの斜め後ろに立ち、「(よ)」と声を出さずに挨拶する。
ぱち、ぱち、とエウルナリアはばつが悪そうに瞬いた。
――予定通り、内緒で邸を出てきたので。
「お帰り、なさい……あの。アマリナのお仕事は?」
「うん。ユシッドからの早馬が楽士団の逗留地まで来たからね。私だけ引き返したよ。間に合ってよかった」
「あぁ……はい。流石ですね殿下は」
「そりゃもう。レインがいなきゃ間違いなくきみの夫にと、昔から目星をつけてた。今でも有望株だよ」
ちくり、と刺さるような暗緑色の流し目に、レインは『うわぁ』と本日二度目の叫びを内心であげた。
唇を噛んだあと、困り眉のエウルナリアが歩み寄り、アルムを見上げる。
長じても小柄なままの愛娘。
どことなく亡き母――オルトリハスで夭逝した前任の歌長に似通う美貌。それでも身にまとう雰囲気は愛した女性を彷彿とさせた。
(結晶だな、この子は)
じわり、と浮かんだ己の言葉に意図せず瞳が和らぐ。そのままの心情を深いテノールに乗せた。
当代の歌長アルムの話し声には、聴くものにまるで歌の一節のように耳を傾かせる何かがある。
それは、魔法のようで。
「反対はしないよ。引き留めない。行っておいでエルゥ」
「本当……ですか、お父様?!」
無茶を通している自覚が濃いだけに、エウルナリアは激しく驚いた。
アルムも一歩、歩み寄る。そっと娘の冷えた手を両手でとった。
「ただし必ず。行くからには目的を果たして帰って来なさい。心配で心配で、心配すぎて死んでしまいそうだ」
「えっ」
さぁ……と血の気の失せた卵形のちいさな顔に、ひとの悪い歌長が吹き出す。たちまち「もう!」と、娘は憤然とした。
が、すぐに鎮火する。
「お父様は……なんとなく、私より長生きなさるのではと日頃、思ってるのですけど」
「……そう? わからないよ? 順番なんて。でも」
「!」
ふわり、と抱き上げられた。さすがに成人してからはないことだったので、エウルナリアは大いに焦る。フードがはだけて長い黒髪が肩を滑り落ちた。はらりとその背を飾る。
アルムは華奢な娘を左腕一本に腰かけさせ、みずからの肩に細い両手をかけさせた。
「重くなったね」
「当たり前ですっ! 下ろしてください!」
アルムはくすくすと応じたが、下ろしはしなかった。下から見上げる温かな瞳の色に、すん、と娘が黙り込んでしまったのを見計らい、ようやく何かを決めたような。ぐっと言葉を飲み込むような素振りを見せたあと更に彼女を引き寄せる。彼女だけに聞こえるよう、何事かを囁いた。
「……え…………」
呆然と青い目がみひらく。その目を、少し痛みの宿るまなざしでアルムは見守った。
「もし。ディレイ殿への切り札が足りないようなら使いなさい。言うべきときを……今まで引き延ばしたことを許してほしい。だけど」
そっと彼女を地に下ろし、抱擁した。
「まだ、わからない。そうじゃないかも知れない。けど――この秘密が。不確定なりにきみを助ける可能性があるなら、使うべきだ。だから……どうか、きみ自身を最優先させて。国は任せて。どのようにでも対応させてみせる」
しばしの沈黙。
腕のなかの姫君は、わずかに身じろいだ。
「はい。あの……教えてくださって、ありがとうお父様。なんとなくそんな気はしてました。大丈夫」
「エルゥ」
腕をとき、肩に手をあてて覗き込む。
その、予想よりも凪いだ表情に思わず打たれてしまう。
「あの。お手紙を机の上に置いてきました。うちには、まだ戻ってないでしょう? ちょっと恥ずかしいですけどご覧になってくださいね。お話したいことは何もかも書いてしまったので――行きます。私。ちゃんと、行ってきます」
「……わかった。気を付けて」
霧が朝日に払われるように、徐々に晴れてきた。ちゃぷん、と波打つ水面にきらきらと金色の光が照り始める。雲間を暁に染め、昇る陽に誰かが目を細めた。誰かが、しずかに目を閉じた。
誰に促されることなく身を離した父娘は微笑みあい、さらりと再びそれぞれの道へと向かった。
錨を巻き上げ、動き出した船の舳先は西へと傾いた。
アルトナの向こう。少女にとっては決戦の地でもある未踏の地、ウィズルへ。




