106 図書の塔、秘密の会議(後)
ドサッ、と重い音をたてて濃紺の皮張りの書物が机上に置かれた。
エウルナリアは青い目をゆっくりとすがめ、タイトルを確認する。
「――『西方大陸公路』。編纂は約三十年前ですね。
…………ユシッド様これ、サングリード聖教会旧西支部の出典で現在は絶版。……幻の初版じゃありませんかッ!?」
「エルゥ、声」
「あ、すみません」
つい――と頬を染め、縮こまった令嬢が申し訳なさそうに謝罪した。
「いいよ」と応じたアルユシッドは慎重に表紙をひらき、最初に折り込まれていた附録の地図を慎重な手つきで広げる。
かさ、かさり。
ランタンの明かりに照らされ、少し黄ばんだ油紙が、ゆらゆらと火影に合わせてほのかな陰影を生み出した。
三者が沈黙とともに見守るなか、丁寧に仕舞い込まれていたせいでぴったりとくっつき、しわになっていた薄い紙が広々と、机いっぱい伸ばされる。
それは、精巧な地図だった。
大陸の東西公路がわかりやすく記されている。
黒、赤、青、緑の四色刷り。飾り文字は流麗で美しく、金箔を用いた部分もある。明らかに値打ちものだった。
「地図を見ながら口頭で説明するね。一応、サングリードにとっては門外不出とされる極秘情報もあるから」
「はい。お願いします」
やさしい、深い声をひそめた皇子は、甘やかに瞳をなごませた。
――会議開始。
* * *
「きみたちも調べたと思うけど。レガートからアルトナの道行きは楽だ。起伏もそんなにないし、湖西岸の町から北上して首都を経由してもいい。一般向けの乗り合い馬車は国が一括管理して運行してるし、地方行政も悪くない。民間の商組織も信用できる」
アルユシッドの、意外に節の目立つ長い指がスッと地図上を移動した。
レガート湖からアルトナの首都ハーヴェ。そして西側国境の町へ。
ぼそ、とグランが呟く。
「問題はそのあとなんだよな」
そう、と相槌を打った皇子の講釈は続く。
「ウィズルの内乱――十年戦争はディレイ王が収めたけど、難民がいなくなったわけじゃない。国境付近は今もほぼキャンプ村だよ。一応、うちからも救護の特設テントをいくつか敷いてる。
そこからの情報だが、治安は最悪だ。貧しさからの人身売買や人拐いが昼日中でも横行してる。言いたくないけど、エルゥには真剣に行って欲しくない」
「いや、いま結構はっきり言ったよね兄殿下」
つい、この場にはいない第三皇子シュナーゼンや第一皇女ゼノサーラの立場と絡めた渾名で冷静に突っ込んでしまうグラン。
アルユシッドはにこり、と流し目をくれた。
「失礼。本音が出たね。
……護身の騎士がいてもそれじゃ足りないんだ。悪ければ泊まった宿屋が裏で犯罪組織と癒着してることだってある。現在のウィズル中央府――西都ウィラークから警吏が派遣されて摘発も進んでるけど根絶は難しい。そもそもの原因は地域レベルの慢性的な貧困だから。土地が痩せすぎなんだ」
「つまり、エルゥ様や僕はちょうど良いカモ、と」
「上顧客……じゃないな。間違いなく『商品』として目を付けられる。お忍びなら余計にそうなるね」
「商品……」
エウルナリアは、無意識にみずからを抱いた。が、瞳に浮かぶ凛とした光は翳らない。頑として目の前の地図の、進むべき道筋を辿っている。
あぁ、翻らないなこの子は……と、アルユシッドの口許に苦笑が滲んだ。
「それでも、行きたい?」
「行きます。行かないと。……あのひとが、準備を整えて迎えに来るのを大人しく待つわけにはいきません。無関係のひとを巻き込む戦だって御免です。いくら勝ち戦のためだからって、海向こうの介入まで許すなんて馬鹿げてるわ。たかだか、私が首を縦に振らなかったくらいで」
「……『海向こう』。セフュラの南海諸島沖の外つ国だね。港湾都市もやられると思う?」
振られた問いに目を瞑り、きっぱりとエウルナリアは頷いた。
「十中八九、必ず。軍服や軍旗を外して船を偽装して、海賊を装えばいいんですから。
――あのひとなら、本当の海賊にまで情報を横流ししてもおかしくない気がします。
外つ国にしたって、どさくさ紛れの略奪で実入りを。あわよくば覇者となったウィズルに、直接恩を売れます。
他にも、読めない一手や二手、隠している可能性はいくらでもありますから」
「……だね」
地図ではなく、分厚い書物に視線を落とし、ひらいた頁を順に捲るアルユシッド。辿り着いたのは聖教会仮支部の点在地を示すものと付箋代わりに挟まれた、何かの一覧表だった。
「じゃあ、提案なんだけど」
「「「?」」」
幼馴染み三人組は、つられるように皇子の指先へと視線を移した。
「きみを危険にさらしたくない僕の一存と、国家としての最善。両方を秤にかけた上で、ぜひ頼みたいことがある。
――これ全部。今ここで。完璧に覚えられる?」
「……はい?」
アルトナ以西、旧東ウィズルと西ウィズル。その、一見平坦な地形を思わせるのっぺりとした地図に幾つもの数字が振ってある。
一覧表には数字ごとに、地名や人名が記されていた。注意書も。
合わせて、十数件はあるだろうか……
「三人とも、すっかり暗記できたら送り出してあげてもいいよ。安心できる“旅団”も付けてね」
――――鞘から、ほんの少し刀身を覗かせたような一瞬の煌めき。
柘榴石の双眸をしたたかに輝かせながら、白銀の皇子はどこまでも柔和にほほえんだ。




