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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 帰還

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103 見えぬ盤上、進む駒

 カタン、と本棚から一冊の本をとる。

 艶のある葡萄酒(ワイン)色の絹糸で装丁された、厚みのある見事な地理誌。エウルナリアはそれにざっと目を通したあと、ささやかな吐息とともに元の位置へと戻した。


 立ったままだ。視線を上げ、さらに上段の本に手を伸ばす。


「んっ……」


 届かない。ぷるぷると指が震え、浮かせた(かかと)も残念なほど足りない。すると――


「はい。エルゥこれ?」


 背後から優しく声を掛けられた。


「アル、ユシッド様……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 上背のあるすらりとした第二皇子は、いとも容易く彼女の目当ての書籍を抜き取った。

 そのまま本ではなくスッと空いた(てのひら)を差し出す。


「?」


 きょとん、とする少女にアルユシッドは微笑んだ。


「調べものでしょう? 地理誌に、旅行記……歴史。エルゥらしいけど。誰かに訊くというのもいい手段()なんだと、そろそろ認識を改めてほしいね。

 おいで? そっちに座って話そう。久しぶりにゆっくり時間を取れたし」


「ユシッド樣」


 困ったような笑み。迷うかのような首の傾げ方。ほんの少しの躊躇のあと、エウルナリアはその手をとった。大いなる嘆息とともに。


「わかりました。こっそり調べたかったんですけど……流石ですよね、殿下」


「ぶんむくれても、『殿下』は無しだよ」


 くすくすと笑う皇子が少女を導き、窓際に面した席に横並びに腰掛ける。外は曇り空。学院の外、レガート湖の色は群青で、空を映し鈍い。


 アルユシッドの長い指が、ぱらら……と頁を(めく)り、止めたのは西方の章。

 前近代の著名な風土誌で、内乱前のウィズルと独立を果たしたばかりのアルトナの関係性についても触れられていた。著者は放浪を旨とした当時の聖職者だという。


 サングリードの司祭でもある皇子は、すでに読んだことがあるのだろう。特に文字を目で追うことなく、すらすらと内容を(そらん)じた。


「『――アルトナ以西、地形は徐々に岩がちとなった。大地は白茶(しらちゃ)けてひび割れ、まるで干魃(かんばつ)のよう。広大な荒野がひらけている。鉱山跡地はそこかしこに見られた。地下資源は豊富にあったらしい』……か。二百年前でこれだ。今じゃ枯渇寸前だろうね」


 どうぞ、と、ひらいたままの本を右隣の少女に譲る。右側に上半身を捻り、頬杖をついて迫力たっぷりに流し目をくれた。


「――で? いつ発つつもりだったの」




   *   *   *




 久しぶりのレガティア芸術学院は、懐かしいくらいに穏やかな日常の気配に満ちていた。そのことは旅から帰還したエウルナリア達を癒してくれたが、生憎(あいにく)と事態は逼迫(ひっぱく)している。


 エウルナリアは図書の塔で調べものを。

 レインは一旦バード邸に戻り、旅支度のために信頼できる(つて)を頼り、物資の調達および諸々の手配を。

 今朝がた、寮の食堂に訪れていたグランは復学の手続きと今後のカリキュラム再編のため、職員室へと足を向けていた。午前いっぱいはかかるだろう。


 図書の塔は相変わらずしずかで、時の流れから取り残されたようだった。

 黙々と一階中央のカウンター内で働く司書の職員らに一礼し、目当てのスペースへと向かう黒髪の少女は、特に誰の注目も浴びてはいないと思っていた。


 まだ散開して間もない午前十時。


 まさか、早速見つかることもなかろう――と、()()を括っていた自分に呆れる。

 最も見つかってはいけない人物に遭遇し、詰問されているのだから。


 ……しょうがないな、と腹を括った。

 白銀の司祭の慧眼をごまかせるわけはないのだ。


「四日後に」


歌長(うたおさ)には?」


「内緒です」


「……騒ぎになるとは思わなかった?」


「お手紙を残していこうかと」


「エルゥ、それはね。世間的には『書き置き』と言って、戻る気のないひとが取りがちな行動なんだよ」


「……そうなんですか?」


「そう」


 アルユシッドは、大真面目にゆっくりと頷く。その仕草はどこか父を思わせ、少女はほのぼのと笑んでしまう。

 「こら」と、たちどころに叱られた。エウルナリアは首を(すく)めつつ、ふふっと小さく笑う。


「戻らないつもりはありませんでした。……どうしたら、ディレイ様(あのかた)の出鼻を挫けるかなと思って」


 咎めようとしていたのか、やんわりと彼女の髪に触れそうになっていた右手を降ろし、皇子は反復した。


「……出鼻を?」


「はい」


 稀有な真青(しんせい)の瞳に力が宿る。窓から差す弱々しい光でも、うつくしく整った容貌は浮かび上がるような光輝に溢れている。周囲からは切り取られたかのような存在感が、少女には以前からあった。


 ――が、砂漠から帰還後の最近はとみに著しい。

 時おり、アルユシッドすら気圧されるほどの。


 知らず、いつの間にか見とれていた皇子のまなざしに、真っ直ぐに応えるエウルナリアの姿が映った。


「かの、建国祭の出欠の知らせのあとでは遅いんです。今この時でないと。あの方は、きっとすべての準備を整えてしまう」



 レガート侵攻を目当てとする、派兵の布石。おそらくはその最後の一手。

 それだけは事前に食い止めたいと、少女は断言した。


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