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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 帰還

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102/244

102 歌姫に捧げる剣と盾(後)

「じっさい、……ディレイ様がうちに攻め(のぼ)るのは難しいと思うの」


 エウルナリアは、とん、と右手で小卓の端に指を置いた。そこからするりと動かす。卓の中央、グランの目の前へと。


 少女の繊細な爪の先を追うように視線をずらしたグランは「まぁ――そうだよな」と、どこかぼぅっとした声音で応じた。


 茶器を二揃いも置けばいっぱいになるようなローテーブルは、この瞬間、簡易の地図となった。



 ――いくら想いを振り切ったとはいえ、互いに身を乗り出せば額を合わせられるほどの近距離。優雅に伏せられたつややかな睫毛も触れたくなるような白い柔肌も、間近で覗き込むのはあまりに凄まじく危険を伴う。

 耳朶(じだ)をくすぐる鈴のように可憐な声が奏でるのは、実に色気のない国際情勢と自国の防衛事情なのだが。


 (やばい。エルゥの奴……破壊力あがってないか? なんでこんな、一々(いちいち)いい匂いなんだよ……!?)


 手折(たお)らずにはいられない。

 そんな、凛と咲き誇る瑞々しさまで(まと)いつつ少女は語る。真面目に、真面目な話を。


 グランは一種、諦観(ていかん)の上に絶望じみた敗北感も滲ませ、傍目にはしずかに耳を傾けた。




   *   *   *




 (いわ)く。

 大陸西端のウィズルが中央のレガートを攻め落とそうとすると、往路を阻むのが農業大国アルトナ。それにレガート湖西(こさい)の大河越しに泰然と領土を構える、南部の強豪国セフュラだという。


 もし、アルトナを蹂躙して現地で兵糧を確保したとしても、湖を渡ろうとすれば水上の戦いに秀でた無傷のセフュラ軍が右手にずらりと控えることになる。


 防火船。沿岸からの投石機。長弓に火矢。もちろん船上での白兵戦もかれらは辞さないだろう。


 千二百年以上昔のレガート帝国戦役で活躍したとされる火器に銃器の類いは、技術そのものが封じられ、葬られているはずだが……他国の軍備の仔細までは流石に調べようがない。それこそ第一級機密だった。


 先頃まで戦乱のさ中にあったウィズル軍も兵の練度は高いだろう。が、常日頃大河を自陣フィールドとして展開し、訓練を怠らないセフュラ水軍に軍配が挙がるのは明らかだった。


 普通ならば。



「……俺もさ、騎士課程の一環でざっと学んだよ。白雪山脈の向こうの白夜(びゃくや)に、河まで南下して防衛線を築いてもらうってのは無理がある。せいぜい睨みを効かせてもらって、物質の支援を願うくらいだ。

 湖の北岸都市サングリードには白夜の一個師団が常駐してるけどさ。防衛上動かせないだろ」


 剣を持つのに相応しい俊敏な腕が動き、エウルナリアの伸ばされたままの手首の内側へと移動した。

 とん、と指を置く。彼女を北ととらえた場合のサングリードの位置らしい。


 少女は詰められた距離にまったく動じず、「うん」と応じる。頷く仕草は真摯そのもの。


 ――――このまま腕をつかんで引き寄せ、机越しに口付けることもできるのに。


 筋金入りの無防備さに、つい(よこしま)な思いに駆られたグランは、くらりとした。

 唾を飲み、意識が持っていかれそうになるのを必死に押し(とど)める。やや早口で畳み掛けた。


「俺ならセフュラとの正面衝突は避けたいね。大河沿いに布陣した際の挟撃の可能性は? 風紋国(オルトリハス)砂海の真珠(ジール)の手応えはどうだった?」


「ん、大丈夫。ジールは今回静観を約してくれたし。オルトリハスは一芝居打つけどジュード様には通達してあるわ。背中からいきなり斬りつけられる、なんてことはない」


 ぴしゃり。

 色っぽい空気にする余地なく断言される。


 (従者といい……主人も詐欺だろ外見詐欺。いや、中身含めて惚れてんだけど)


 ――――重症だな、とあらためて自覚する。同時に胸を刺す痛みにも慣れつつあるなど、我ながら心底どうしようもない。

 みずからを嘲笑(わら)うように、唇が苦い形になるのを止められなかった。目敏(めざと)く気づいた令嬢が、やや下から覗き込むように見上げてくる。

 その、半ばひらいた珊瑚の唇の色あいに。



 ぷちん。


 簡単に、どこかで理性の緒が切れる音がした。



「グラン? ……大丈夫? ごめんね、試験のあとでこんなに込み入った話を」

「いいって」


「? って…………あっ!?」


「!!! こ……こらグラン! 何をっ」



 彼女だけの騎士を自認する青年の動きは速かった。

 ぐい、と広がった衣装の袖から細腕を直接掴み、力を加減しつつ引っ張る。

 目前に迫ったやわらかな手指に有無を言わさず左手を絡め、滑らかな甲に唇を落とした。

 つめたい手だった。――いや、自分が熱を持ちすぎるのか。


 固まる主従を相手どり、グランはそろりと上げた目線のみでエウルナリアを囚える。口許を彼女の手肌に這わせたまま。


 さりげなく右手が衣装の内側をやわやわと進み、肘の上まで到達したがレインの手前、ぎりぎりの理性でそこまでにしておいた。手触りは堪能しておく。


「でも。ま……正面からだって、予想外のことはどれだけでも起こりうる。――もっと自覚持てよエルゥ。俺はあんたが好きだから。隙があればいつでも口説く」


「!!!」


「こ、の、…………言わせておけばっ!!」



 つかつかと近寄ったレインが実力行使するまでもなく、グランはぱっと手を離した。

 ぼすん! とソファーに勢いよく凭れ、満面の笑みを溢している。その毒気のなさに。


 エウルナリアは、奪われていた左手を胸の前で抱え、真っ赤になった顔を隠す余裕もなく呟いた。


「えっ……と、あの……専任騎士って、そういうもの……?」


「そんなわけないでしょ!」

「大丈夫。きっちり守るから」



「「……説得力が、ないぃぃっっ!!」」


 ぴったり息の合った主従の訴えと真新しい騎士のくすくす笑いが、秋深まる窓の外まで聞こえるほど。

 仲良く、賑やかに重なった。


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