11.姉の困惑と妹の安堵
至近距離で睨み合う。
オスカーは扉を殴りつけた体勢のまま、こちらに覆いかぶさるようにして、退く様子もない。唇だけで嘲笑ってみせながらも、青の瞳には嵐のような怒りが渦巻いている。
エイヴァは瞳に力を込めて、射殺すような鋭さでオスカーを見上げた。
しかし、胸の内では冷静さを取り戻しつつもあった。もとよりエイヴァは怒りが長続きする性質ではない。それに自分より激昂している人間が近くにいると、自然と頭が冷えてくるものだ。今やエイヴァの胸を占めるのは、怒りよりも戸惑いのほうが大きかった。
(なんでこんなに怒ってるの、オスカーは。どう考えても今はあなたが怒る場面じゃなくない?)
安眠のために失脚させたというところまでは、この際、百億歩譲って受け入れるとしよう。
そんなふざけた理由でと、さっきは怒ったけれど、冷静になって考えれば、何に重きを置くかは人それぞれなのだ。人形にしか価値を見出さない王だっている。他人には理解できない事柄であっても、本人にとっては何よりも大切だということはあるだろう。他人がそこをとやかくいうものではない。
オスカーにとっては、快適な睡眠こそが、王妃様を敵に回してでも守りたいほど大事なものだったということだろう。思えば、普段からサボって寝ることにばかり熱心に励んでいる男だ。それほどに安眠を愛していたのだろう。
しかし、裏切りは裏切りだ。かつて交わした『ともに王太子殿下を支えていこう』という約束を破ったのはオスカーだ。
戦場では肩を並べて、ときには背中を預けて戦った仲だというのに。戦友との約束を破るなど魔術師部隊の風上にも置けない。いくら普段は万年寝るだけ男だとしても、いざというときには必ずこちらの信頼に応えてくれる男だと思っていたのに。
ここはオスカーが平謝りする場面ではないのか。バッタのようにペコペコ頭を下げて謝ってきてもいいはずだ。そうしたら自分だって、ため息一つで気持ちを切り替えることもできただろう。それなのに、いつになく怒りに満ちた眼で見下ろしてくるとはどういうことだ。
負けてたまるかと、エイヴァは身体中の怒りの残滓をかき集めて青の瞳を睨みつけると、低い声で凄んだ。
「いずれ来る結婚生活を楽しみにしてるといい。悪夢を約束してやる」
「ハッ、君が見せてくれるなら楽園の間違いだろう。───だが、君こそ覚悟しておくんだな」
青の瞳がすうと細められる。
「俺は君を、丁寧に丁重に遇してやる。君を余すところなく慈しんで、王太子は婚約者に溺れていると評判を立ててやる。君を美しく着飾らせて、君の望むものすべてを与えてやる。誰の眼にもわかるほどに、次期王の寵愛はただ一人、君に捧げられるものだと示してやる」
「きっ、気持ちの悪い言い方をするんじゃない! 王妃派だからといって無下にはしないってことでしょう!? 普通にそういってくれる!?」
今のオスカーなら自分の派閥から未来の妻を選ぶことができる。それをあえて自分を望んだのは、王妃派に対して歩み寄りの姿勢を見せるためだろう。そして同時に、第二王子はどこまで王妃とやり合う気なのかと戦々恐々としている貴族たちを落ち着かせ、王太子の座という権力の移行を穏便に済ませるためでもあるのだろう。
そして、その目的で婚約するのだから、こちらを冷遇しているなどという噂が立っては困る。王妃派の筆頭といわれるエイヴァであっても、丁重に丁寧に扱っていると周囲に示したいところだろう。
それはわかる。わかるから率直にいってほしい。
エイヴァはうんざりとした息を吐き出した。知っていたことではあるけれど、どうしてこの男はこうも性格が歪んでいるのだろう。
「なにが寵愛だか……、嫌味のつもり?」
オスカーはわざとらしく嘲るように笑った。
「嫌味とは心外だな。俺は事実しかいっていない。王太子夫妻が不仲だと騒がれるよりは、俺が君を溺愛していると思われた方がいいだろう?」
「適切な距離と信頼関係を保つ努力だけしろ。とりあえず約束を破ったら謝ってほしい」
「……俺にとってあの約束は破られるべきだったし、謝罪するのは君がそれを真に理解したときだけだ」
「あなたの睡眠への愛を理解した上でいってるんだよ、わたしは!」
思わず噛みつくように叫ぶと、オスカーは冷めた眼でこちらを見下ろした。
「……エイヴァ。俺は君を、甘やかしつくしてどろどろに溶かしてしまいたいと思っているが……、ときどき、君に思い知らせて身も世もなく泣き崩れさせたいという衝動に駆られる」
「唐突な変態発言はやめてくれる?」
嫌味はもっと普通にいえ、普通に。
そう顔をしかめると、オスカーはやれやれといわんばかりの顔をした。
いつも通りのけだるそうな顔に戻り、面倒くさそうにこちらを見下ろしてくる。
ようやく退く気になったかと、エイヴァが肩の力を抜いたときだ。
長身の男は身を屈め、こちらの耳へ唇を寄せて、冷ややかな声で囁いた。
「覚えておけ、エイヴァ。俺は異母兄上とはちがう。……君が慕ってやまない、あの女ともな」
※
オスカーを部屋から叩き出し、勢いよく扉を閉めてから振り返ると、セシリアが心配そうにこちらを窺っていた。
エイヴァはへらりと笑って、誤魔化すように頭をかいた。
「ごめん、大きな声を出しちゃって。びっくりしたよね」
「それは構いませんけれど……。お姉様、オスカー殿下は……、あの方は、もしかして……」
セシリアはそこで、言葉を探しあぐねたように口を閉ざし、ややあってから諦めたようにいった。
「オスカー殿下は普段からあのような方ですの? いえ、失脚云々ではなくて、その……」
上手くいえないというように言葉尻を濁す妹に、エイヴァは「ああ」と納得顔で頷いた。
「王太子殿下とオスカーが全然タイプがちがうから驚いた? 確かにオスカーは王子様って感じがしないよね。繊細さがないもの」
オスカーは容姿だけなら父親似だが、人形王と呼ばれる国王陛下ほど浮世離れした雰囲気はない。どちらかというと図太くどこでも寝られる猫のような男だ。
エイヴァはセシリアとともにソファへ戻り、冷めてしまったお茶を二人で淹れなおした。
それから、ため息とともに腰を下ろす。
ソファの背もたれに身体を預けて、だらんと天井を仰ぎ見て、深く息を吐き出した。
「オスカーは隙あらば寝てるような男だから、本気で怒るってめったにないんだけどね。……さっきのあれは本気だったな……。いやでも、おかしくない!? 怒っていいのはわたしのほうだよね? オスカーは謝るべきだよね?」
「ええ……。そう、ですわね……」
「何に苛ついてるんだか知らないけど、今日はやたらと嫌味たらしかったし。聞いてた、セシィ? なーにが寵愛だって感じじゃない? 自分の行いをまず謝ってから口を開けっていうのよ」
「いえ、お姉様、それは……」
どうしたのだろう、先ほどからセシリアがいやに歯切れが悪い。
エイヴァは背もたれから身体を起こして妹をじっと見つめ、それからにやりと意地悪く笑った。
「ははーん、さてはセシィ、さっきオスカーのことを、このおねーさまの夫候補第一位なんていったのを後悔してるんでしょう? わかるわかる、さっきのオスカーはちょっと変態じみてたもんね。まあでも、普段はもう少しまともな男だから」
「いえ、オスカー殿下は燦然と輝く第一位ですわ」
「うそでしょ」
「むしろ先ほどの会話で確信いたしました。お姉様の夫にはオスカー殿下以外考えられませんわ」
「……セシィ、へ、変態が好き、とか?」
「お姉様」
「ハイすみませんでした」
セシリアは呆れたようにこちらを見やってから、ため息混じりにいった。
「確かに、少々変わった方だとは思いましたけれど」
「でしょう!?」
「それ以上に、お姉様が相手ではオスカー殿下もさぞ苦労されていらっしゃることでしょうと、深く同情いたしましたわ」
「いやいやセシィ、苦労しているのはおねーさまのほうだよ。わたしが何度会議中に寝るあの男を叩きおこしたことか」
これまでの被害を真剣に訴える。
しかしセシリアは聞く耳を持たない様子で、美味しそうにお茶を飲んだ。
それから、深緑色の瞳に安堵のような不思議な色を滲ませて、柔らかく微笑んだ。
「先ほどの言葉を撤回いたしますわ、お姉様。わたくしが案じ続けなかったら、わたくし以外の誰がと、そう思っておりましたけど……、わたくしのほかにも一人、ただのエイヴァお姉様を想う方がいらっしゃったのですね」
次話はオスカー視点です。残り二話で完結です。




