10.オスカーとエイヴァ
エイヴァはつかつかと歩み寄ると、セシリアの身体を引いて背後に庇い、扉を盾代わりにオスカーへぶつけて、閉めると同時に叩きだそうとした。しかしそれは、男の腕に難なく防がれる。
エイヴァはぎらつく瞳で長身の男を見上げて、低い声でいった。
「この状況下でわたしの部屋を訪ねてくるなんて、正気?」
昨日の今日だ。エイヴァの部屋に第二王子が入っていったなどと噂されたら、いやこうして問答しているところを目撃されるだけでも、たちまち皆が勘繰るだろう。実は天輪の魔術師と第二王子は手を組んでいたのではないか、二人で王太子殿下を追い落としたのではないか、まさか王妃派の筆頭が王妃を裏切っていたのか? そんな風に陰で囁かれるだろうことは、王宮に不慣れなエイヴァですらたやすい。
しかし、怒りをたぎらせるエイヴァの前で、オスカーは嫌味たらしい笑みを浮かべていった。
「君が俺に話があるだろうと思って、わざわざこちらから出向いたんだがな。まあ、話すことはないというならいい。情報不足で不意打ちを喰らうことを繰り返すのが君の趣味だというならな」
舞踏会の件をあてこすられて、エイヴァの額に青筋が浮かんだ。
エイヴァは自分のことをどちらかといえば呑気な人間だと考えていたし、周囲からも大雑把だの雑だのといわれても、短気だと評されたことはなかった。しかしオスカーを前にすると、エイヴァは自分の理性がブチブチと音を立ててキレていくのを感じる。これは決して自分のせいではなく、何もかもこの会議中に堂々と寝る馬鹿にして性格と根性の歪んだ男が悪いのだ。
背後で動揺しているセシリアを振り返り、安心させるように笑って「奥へ行っていて」と告げる。妹はためらいがちに頷いたものの、途中で何度も心配そうにこちらを振り返るので、大丈夫だとひらひらと手を振って見送った。
セシリアの後ろ姿が見えなくなる所まで見届けてから、無言で扉を開けてやると、オスカーは悠々と入ってきた。
エイヴァはその後を追わず、扉を閉めると、その場に陣取ったまま男の背中に声をかけた。
こんな奴に出してやるお茶はない。立ち話で十分だ。
「今さら野心に目覚めたんだって? 頭でも打ったの、オスカー?」
男は振り返ると、けだるそうな青の瞳に、せせら笑いを浮かべていった。
「祝福してくれないのか? 寝ること以外の趣味を見つけろと、俺に散々いってきたのは君だろう?」
「権力争いが趣味になったとは知らなかったよ。いつの間に? そもそもこれは───、本当にあなたの意志なの?」
厳しく問い質すはずの声が、縋るように響いてしまう。エイヴァは奥歯を噛みしめた。
ちがうといってほしい。ここに来てもまだそう願ってしまう。
オスカーを信頼していた。ともに王太子殿下を支えていくのだと思っていた。
今となっては世間知らずと嗤われるような夢だろう。強大な力を持つ第二王子が、王太子にとって政敵にならないはずがないと。
けれど、自分の知るオスカーは、本当に、野心家からは程遠い人間だったのだ。だらだらしていてゴロゴロしていて、隙あらば寝落ちしていて、作戦を共にするたびに自分を怒らせる男だったけれど、でも、異母兄を蹴落としても権力の座を掴もうとする人間ではなかった。
扉の前に立ったまま、エイヴァは祈るようにオスカーを見つめる。
冷ややかな青の瞳の男は、薄笑いを隠そうともせずにいった。
「俺の意志だ、エイヴァ。ほかの誰でもない、俺の望みだ」
「……なんで? ……本当は、ずっと、王位を狙っていたっていうの……?」
だとしたら自分はなんて間抜けだったんだろうか。彼の本心を見抜けずに信頼し、最後には足をすくわれるとは。
唇に自嘲が滲む。じわじわとこみ上げる無力感を必死にかみ殺したとき、オスカーが首を傾げていった。
「いや? 王位はなんというか……、副産物だな」
エイヴァはまじまじと目の前の男を見返した。
は? という気持ちである。
は? なにをいい出したんだ、この万年寝るだけ男は?
オスカーは一人納得したように頷いた。
「特に欲しくはなかったが、必然的についてきてしまった副産物だ。まあ、仕方ないな」
「は? フクサンブツってなにそれ異国の言葉? 理解ができないっていうかしたくないんだけど、いやちょっと待ってオスカー」
エイヴァはつかつかと男へ歩みより、無造作にその胸倉を掴んで尋ねた。
「じゃあ本当の目的はなによ?」
「いつも思うんだが、君は俺の胸倉を掴まないと話せないのか?」
「いつも思うんだけど、あなたはどうしてそんなにわたしを怒らせるのが上手いの?」
「さあな? 俺の問題ではなく、君が情熱的なだけじゃないか?」
「はは、それってわたしが短気だっていってる? あなたを前にしたら皆ぶち切れたくなるから安心してほしいな、オスカー」
低い声で凄めば、男はやれやれといわんばかりに首を振った。
「残念ながらエイヴァ、俺の胸倉を掴んで叱責するのは君だけだ」
「毎回会議中に堂々と寝るから呆れられて何もいわれなくなったんでしょうが! ……あー、ちがう、こんな話はどうでもいいんだって。そうじゃなくて、本当の目的は? 王位を望んでないなら、何のためにこんな真似をしたの」
近くにある青の瞳を見据える。そこに隠された意図を見抜くために。
オスカーの眼は、いつものようにけだるそうだった。
けれど、その瞳の奥に、ちりと燃える何かが見えた気がした。苛立ちのような、怒りのようななにかが。
エイヴァがその何かを掴む前に、オスカーは億劫そうに口を開いた。
「いっときの平和とはいえ……、戦いは終わった。この先は、君も俺も王宮で暮らすことになる。そうなるとうるさいだろう、異母兄上が」
「……? それは、つまり……、いずれは王太子殿下から粛清されると、そう恐れて先手を打ったということ?」
「いや? 戦を仕掛けられたなら、そのままお返しするさ」
そうだろうなとエイヴァは頷く。
オスカーは面倒くさがりだが、切っ先を向けられたなら、相手の心臓に氷の杭を打ち込む男だ。それに陸域のトップであり、地上戦では最強の魔術師である。王太子殿下の劣等感がいかに深くとも、こちらとしては敵に回すより味方に取り込みたい相手だ。ポーター家が野心をちらつかせても、王妃様がオスカー個人には何もしなかったのは、その打算もあったからだろうし、そう思われていることをオスカー自身知っていただろう。
意図を掴めず、視線だけで問いかけると、オスカーはやはり面倒くさそうにいった。
「言葉通りだ。君や俺が近くにいると、異母兄上がうるさいだろう。下賤だの、卑しい血筋だのとな。俺は距離を取ることもできるが、君は妃殿下の手前そうもいかない。そうなると、俺は王宮の隅で昼寝をしていても、異母兄上の喚き散らす声に悩まされる羽目になる。……君を蔑み罵倒する声にな。うるさいといったらない」
唖然とするエイヴァの前で、男は「だから」と続けた。
「異母兄上自身に遠ざかっていただいた。俺の快適な睡眠のためには必要なことだった。王位はその副産物だ。納得して頂けたか、天輪の大魔術師殿?」
こちらを覗き込むように尋ねられて、エイヴァはぱちりと瞬いた。
二度、三度とまばたきを繰り返す。
理解できない、意味がわからないという驚愕から、ようやく我を取り戻して、そして、指先が印を描いた。今まで幾度も魔物の軍勢を燃やし尽くしてきた魔術式が、一斉に浮かび上がる。
オスカーは面白そうにそれを眺めていった。
「君はこれでも短気じゃないといい張るのか?」
「───ふざけるな」
怒りを突き抜けた声が、暗く、重く、まるで大剣の切っ先のごとく硬質に響く。
エイヴァはオスカーの胸倉から手を離した。間合いを取るように後ろに下がる。
そして同時に、エイヴァを中心として炎が渦を巻いた。
「快適な睡眠? そんなことのために王太子殿下を失脚させたのか。そんなことのために王妃様を苦しめたのか。───頷いてみろ、オスカー。その瞬間からお前はわたしの敵だ、第二王子殿下」
「王妃様、王妃様と……。君はまったく……、耳障りだな」
炎の渦が一段と激しさを増す。
けれど男は、それを一瞥しただけだ。
自らの魔術を構築する様子もなく、引くそぶりもない。
オスカーはただ、冷ややかにこちらを見て嘲笑った。
「俺としては、君に感謝してもらいたいところだがな」
「妄言を抜かすな」
「もっと悪辣な手をとることもできた。武力を行使することもできた。王太子を煽って叛逆に走らせ、王妃派をまとめて引きずり落すこともできた。それこそ、君の大切な大切な王妃様に杭を打ち込んで終わりにすることもな」
男の真横で、炎の魔術式が弾ける。
男は顔色一つ変えなかったが、それは脅しであり、同時に宣戦布告でもあった。
「王妃様に指一本触れてみろ。わたしは必ず、どんな手を使ってもお前を殺す」
「……だから、手加減してやったといっているだろうが。可能な限り丸く収めた。王太子は失脚させたが、妃殿下へのダメージは最小限に留めた。……君だってこれで、あの男に罵られ続ける未来とはお別れだ」
「恩着せがましくいうんじゃない。殿下の罵声だと? わたしはそんなことどうでもよかったんだ」
「───っ、ああ、君はそうだろうな!」
突然、男が声を荒げた。
周囲に満ちる魔術式を手を振るだけで薙ぎ払い、男はつかつかとエイヴァに迫る。
普段は怠惰な猫のように過ごしている男の、いつになく怒りをあらわにした青の瞳に、エイヴァはわずかに怯んだ。
間合いを維持しようと後ろに下がるが、それも限度がある。
背中には扉の硬質な感触が当たり、真正面からは苛立ちをあらわにした男が来る。
間近に立ったオスカーは、先ほどの脅しの報復のように、エイヴァの頭上を殴りつけた。扉が揺れる。振動は背中から伝わり、室内には鈍い音が響き渡る。
「君にとってはそうだろう。君はそういう人間だ。だが、俺にとってはうるさかったんだよ。許しがたいほどにな」
荒れ狂ってもなお冷たい青の瞳が、切り付けるようにこちらを見下ろす。
エイヴァはその視線を真っ向から受け止めて、唇の端で嘲笑ってみせた。
「はっ、そんなに安眠が大事なら、先にいえばよかったんだ。そうしたら、わたしがお前を永遠に眠らせてやったのに」
「ほざけ。今さら何をいおうと、負け犬の遠吠えだ。王妃派は俺に負けた。このうえ、王太子妃の椅子まで譲りたくはないだろう? ───諦めるんだな、エイヴァ。君の婚約者は、今日からこの俺だ」




