後編
その日から、ディアス様はよくお嬢様へ会いに来てくれるようになった。
もちろん、手紙のやり取りは続いていて、お嬢様は毎回書き直しを何度かしながら、それでも楽しそうにペンを走らせている。
ディアス様はお嬢様を訪ねてくると、毎回この部屋に通される。お嬢様が来るまでのわずかな時間、ただの小鳥であるわたしへ必ずあいさつをしてくれるくらい大変律儀で誠実だった。
今日もディアス様が来るらしい。
さっき、わたしの籠から布を取り払ってくれたメイドが、窓を開けながらそんなことを言っていた。
今日は、どんな格好かなあ。初めて会ったときは、上着が小さそうだったけど最近はピッタリだし。タイも綺麗に結べているし。そういうところを見るのも楽しみだ。
お家でおしゃべりしたら、お出かけするのかな。天気もいいし素敵な時間を過ごせるだろう。
どこに行くのかな、どんなお話をするのかな。
勝手にふたりのことを思って、そしてひとりで楽しくなって歌ってしまう。
ピィピィ、ピルルルル。
軽やかな風が部屋の空気を澄ませるのに合わせて、わたしもぴょんぴょん踊りながら喉を震わせる。
「ロチカ、ディアス様がいらしたわよ」
お嬢様が、ディアス様と部屋にやってきた。
弾んだ声で挨拶してくれたお嬢様は、ディアス様と視線を合わせて微笑むとわたしを籠から出してくれる。差し出された手に乗って、ピルルと挨拶をして、羽を上下に動かして。
くすりと笑うお嬢様の髪を、風が撫でていくのがきれいで窓を見上げる。あれ、めずらしく窓が開いているなあ。
いつもはカーテンだけ開いていて、硝子が外と部屋を隔てているから。びっくりするくらい窓の外が澄んで見える。
窓が開いてて、空が広くて、風が心地よくて。吸い込まれるように羽が動いた。
「ロチカ!」
お嬢様の大きな声が、聞こえたけれど。
気持ちのよい空から目が離せずに、わたしは思い切り羽を動かした。
澄んだ風に乗って、青い空へ向かって、まっすぐ――
***
はらりと、一枚の羽根が落ちる。
薄桃色の羽根の持ち主は、呆気なく飛んでいってしまった。取り残されたセシリアもディアスも、あまりの出来事にどうすることもできずに部屋の中で立ち尽くす。
はっとして、ディアスは部屋の外に控えている従僕へ小鳥を探すように声をかけた。紙のように白い顔色のセシリアも、かろうじてお願いしますと言葉を重ねる。
自分も探しに行ったほうがよいかと思ったディアスだったが、セシリアの肩が震えているように見えて傍に寄り添った。彼女が窓が開いているのに小鳥を籠から出してしまったと、自分を責めていることは一目瞭然だった。
「……もう戻ってこなかったら、どうしましょう」
どうしましょう、わたしが確認を怠ったばかりに。いつもは籠を開ける前に気をつけているのに。どうして、ああ、なんてこと……。
窓から身を乗り出して、一生懸命に視線を走らせるセシリア。
言葉にはされなくても、その後悔と自責の念は痛々しいほどだ。ほんの少しだけ一緒の時間を過ごしたことがあるディアスでさえも、胃が凍るような思いがしている。毎日世話をして可愛がっていたセシリアは、一瞬だが大きすぎるこの出来事にどれほどの思いを抱えているだろう。
セシリアが一羽の小鳥を大切にしていることは、よくわかっている。
だから、新しい小鳥を、なんて慰めるための言葉が一瞬でも浮かんでディアスは頭を振った。そんなことを、彼女は微塵も望んでいない。数多いる鳥たちの中に、あの小鳥のかわりなどどこにもいないのだ。
「そんな悲しいことばかり考えては駄目ですよ。誰にでも過ちはあります」
ディアスは努めて、強くも弱くもない声色で言いながら、懐から小さな包みを取り出した。
テーブルの上で広げる。自分の手のひらよりも小さいそこに、乾いた音をたてて丸みを帯びたものたちが顔を出した。
「まだ時間は経っていません。めずらしい色なので、見かけた人も多いはずです。待ちましょう」
「これは……?」
「ロチカが気に入るのではと思い、餌をいくつか用意しました。帰ってきたら食べてくれるとよいのですが」
四種類の穀物、三種類の花の種。
よく食べそうならまた持ってこよう、手配してもいい。そんなことを考えながら用意したものを、食べる姿を見られないのは寂しい。
あの高らかに響く歌声と、それに微笑む姿と、どちらが欠けるのも嫌だなとディアスは素直に思う。
「ロチカは、賢い鳥です」
だから、信じましょう。
少しだけ外を見に行って、家に帰ってくるのだと。いつも人の言葉に耳を傾け、ご機嫌に話すあの小鳥ならば、きっと大丈夫だと。
「……そうですね。お散歩くらい、許してあげないといけませんね」
ふうと息をついたセシリアが、ぎこちなく笑ってみせる。
窓際へ動かした椅子を勧め、メイドにあたたかな茶をお願いし、包みの餌をロチカの籠の皿へ移すことまでやってから。ディアスは自分にできることがまだないか、セシリアを励ましながら思考を巡らす。
とにかく、水色の空に桃色の姿が現れるのを見逃さないようにしなければ。ディアスは目を凝らして外を見上げた。
***
そろそろ戻らないとな。でも、広くて大きな空を、気ままに飛ぶことがこんなに気持ちいいなんて。
お家のある街は、山と森がすぐ近くにある自然豊かな場所だった。大きい通りを馬車が走って、馬に乗っている人もいて、もちろん歩いている人もいた。市場は朝じゃないけど人が行き交っていたし、小麦畑は黄金色で風が吹くたびにきれいな波がざわざわと音を立てている。
その上を円を描きながら飛ぶのは、本当に本当に気持ちよかった。
わたしは初めての外を思うままに堪能したところで、お嬢様の顔を思い出していた。結局おでかけはどこに行ったのだろうか。またお土産話を聞かせてくれるだろうから、楽しみに待たなくては。
自分が出てきた窓がまだ開いたままなことを、遠目から確認できた途端に大きく一度羽ばたいて向きを調整してから、わたしは一気に風に乗った。するりと中へ滑り込んで、テーブルへ着地。羽が音を立てるのと、ばたんと窓を閉まる音が一緒に聞こえた。
あれ? お皿にいつもと違うごはんがある! 味比べがいっぱいできそう。やったあ。
籠から出された自分の皿が目に入ったので、興味津々に近づくとお嬢様が窓のほうから駆け寄ってくれた。
「ロチカ!」
はーい、ロチカです。ピルピル、ピィロロロ。
空を飛ぶってすごく気持ちいいですね。ぐるっとひとっ飛びしてきましたよ。お嬢様たちは、おでかけは? これから行くの??
首を傾げて見上げると、心配そうな顔がふたつ。
……あれ? もしかして、わたしが出かけたから出かけられなかったんですかね。うーん、そんな感じするし、確かにペットの鳥が逃げたら一大事。これはこれは。暢気に空を楽しんでいる場合じゃなかったかも。
「……よかったわ」
ピルルル、ピィピィ。ごめんなさい、お嬢様。
震えている声に、わずかに潤んだ瞳に、この部屋のこれまでの時間を想像してみる。
たぶん、そんなに時間は経っていないはずだ。まだお日様の場所も変わりない。
それでも、心配してくれたんだろうなあ。
大きく息を吐いたお嬢様の肩に、そっとディアス様が手を添えた。
ディアス様、お嬢様に寄り添ってくれていたんだ。それはそれでよかったかも。手のあたたかさに、お嬢様もディアス様を見上げて微笑んだ。
またほんの少し、距離が縮まったみたいだ。
それなら、わたしがここでお手伝いしよう。心配かけちゃったし、それくらいやってみせなければ。
低い声は出せるかなあ。ピィピィ、ピロロ。えへんえへん。
セシリアさま、とてもあいらしい。
ほら、結構似てませんか? あんまり低い声は出ないですけど。
「ロチカ!」
びっくりしたのか、お嬢様が大きい声をあげた。いつもお上品なのに、めずらしい。
さすが、わたしのことをよく知ってるお嬢様。これが誰の言葉かすぐにわかったんだ。
「ロチカもう一度言って!」
すかさずわたしの前に手を差し出したお嬢様。その手に飛び乗るわたしへ、焦ったディアス様が首を振って制止をかける。
目をキラキラさせてわたしを見ていたお嬢様と、手で顔を覆っているディアス様のふたりを、わたしは順番に二回ずつ首を回して伺った。
もう一度言います?? えへんえへん。何回でも言えますよ!
「い、言わなくていい。――自分で言う」
耳まで赤くなっているディアス様の言葉に、お嬢様が息を飲む。ぴたりと動きを止めてしまったお嬢様の傍へ、こほんと喉を鳴らした人がゆっくりと歩み寄った。
あの華奢な手に恭しく触れて、ディアス様はまっすぐとお嬢様を見つめる。
「愛しています」
ひとこと、言って。
少しだけ時間が止まって。
触れていた手と手が、きゅって絡んで。
「セシリア様を、お慕いしています」
聞き間違いでも、言い間違いでもないのだと念を押すみたいに。低い声がしっかりと紡がれた。
「わたしも、わたしもディアス様をお慕いしています」
頬を薔薇色に染めたお嬢様は、花が咲いたみたいにお顔全部で微笑んで、ゆっくりと頷く。ほんの少し上擦った声が、それでもしっかりお答えしていて。
あらまあ、こんな場面にわたしが居合わせているなんて!
幸せのお裾分けをうけたみたいだ。うれしいうれしい。
「ロチカ、きみのおかげだ。ありがとう」
キュルキュルルル、ピーロロロ。
わたしもなかなかやるでしょう? でも、うまくいったのはおふたりがそれぞれ勇気を出したからですよ。よかったですね、うまくいきましたね。よかったですねえ。
ご機嫌に鳴いてから、あとはもう言うことは決まっている。
そっと内緒話するみたいに、小さな声ではにかんだ人へ。その向こうで瞳をキラキラさせて飛び跳ねた人へ。わたしは胸を張って自慢の声を響かせた。
ピィピィ、ピィロロロ。
あなた、かわいいわ。




