ゴブリンと大雨と共に訪れた災
偵察から戻ってきたエヴェトラの分身が融合し、バザウがよくしる人間を模した姿へと変わる。
「解決の糸口は見つかりましたか?」
「……いや」
バザウは苦い顔で首を横に振る。わかったのは、これからぶつかる相手の信念はとても強靭だということ。
今後の動きに悩みながらバザウは砂漠の眠りに落ちた。熱い日中でも岩陰の穴ならば砂の温度は低い。この岩をもともとねぐらにしていた砂トカゲが迷惑そうに一声鳴く。
灼熱の太陽が沈んだ後はバザウの悪だくみの時間。岩陰から這い出したところに、白く房状の植物がバザウの頬をなでた。白いエノコログサ。眠る前にはそんなものはこの周囲には生えていなかったはずなのに。
「こんばんは」
訪問者は夜と共に現れた。
白くて小さな毛皮に包まれた最難関の宿主が。
犬が発したのはゴブリン語でも大陸共通語でもない言葉だが不思議と意味はわかる。
「なるほど……これが万物との会話か」
「そうだね。創世樹の宿主として名前をもらった時にチリルが色んなものとしゃべれるようにしてくれた。オースティンがいる時にこうやっておしゃべりしたかったけれど、まあ彼を見つければ好きなだけしゃべれるさ」
言葉をあやつる犬はエヴェトラの方を見た。
「現身を変えても魂の層を見ればただの犬じゃないのはすぐにわかったよ」
魔術師ティモテ=アルカンシェルがいっていた肉体外にまで広がる精神領域のことなのだろうか。
バザウも老魔術師の指導で層の一つを意識的に使えるようにはなった。ティモテはバザウの精神体を尾羽を広げたクジャクや角が伸び放題のシカにたとえたが、最終的にブロッコリーのシルエットをしていると結論づけていた。
(ブロッコリーってなんだよ……ブロッコリーって……)
訂正しようにも自分の目ではわからない。バザウは自分の精神体を動かし制御するのが精いっぱいで、ティモテのように視覚化して体外層を認識することはできない。
「君もかなり変わっている。普通の生き物なら実体と同じ形状の層がぼんやり外側を覆ってるだけなんだけど、君の場合は……枝葉を大きく広げた木みたいだ」
「……」
エルフの森で体を樹木に変えられた時、狂気に陥るどころか穏やかな心境になったことをバザウは思い出す。本来あるべき形に戻ったかのような不思議な安寧さえ感じていた。
「……お前のそれはチリルに与えられた力なのか」
白い犬の瞳にきょとんとした表情が浮かんだ。しばらくして穏やかに笑い声での否定。
「それは違う。魂の色と形を見るのは僕がもともと持っている能力だ。臭いをたどる能力や長く速く走る能力、美味しいオヤツをぺろりと食べて中に隠された錠剤だけ吐き出す能力や大事な人の足音や気配を判別する能力と同じにね。全部の犬が見えるわけじゃないみたいだけど見える犬も多いよ。萌木の魂を持つ小鬼、君がバザウだよね。チリルから君には注意するようにいわれている」
バザウの情報が宿主側にバレている。アルヴァ=オシラの時もそうだった。チリルは宿主に協力的だ。ルネにもこのくらいのサービス精神を発揮してもらいたいものだ。
(……いや、あの鳥の話を聞いても物事の真偽を疑う手間が一つ増えるだけだろうな)
「だけど僕は君に吠えかかろうだとか噛みつこうだなんて思っちゃいない」
小さな白い犬は短い尻尾を振ってバザウに親愛の眼差しをむけている。
「僕はケレイブ=サイド。君と話がしたいんだ」
「一つよろしいですか?」
沈黙を保っていたエヴェトラが右手を挙げた。難しい話の蚊帳の外にいた、ともいえる。
「なでても構いませんか?」
「どうぞ。背中とか腰を毛並みにそってなでられるのが好きだな」
「わ~い! ふわふわ~……じゃない!? 意外と剛毛ですね」
「僕は猟犬の血筋らしい。そういう毛質なんだ。オースティンのブラッシングに不備があったせいじゃない、ってことを付け加えておこう」
神は犬とたわむれている。有意義な情報を引き出そうとか、便利な能力で事態を進展させてくれそうな様子は皆無。神をあてにしてはならない。
「お前は世界をどう変えるつもりだ」
ピンク色の小さな舌でペロッと鼻を一舐めしてからケレイブが答えた。
「僕が掲げる真理は光悦の伏侍」
「世界を犬の楽園に変える試みだろ? 神殿都市のネコはずいぶんと割を喰ったみたいだぞ」
「別にネコたちと敵対する気はない。迷惑をかけちゃってたかな? 僕は絆の尊さを信じている。僕とオースティンの間にあるものをすべての心に宿したい」
「ご立派な野望だな。だがお節介だ。俺にはペットは必要ない」
「ペットとかそういうことは関係の一つにすぎないよ。僕が大事に思っているのは絆。異なる魂の深い結びつき。心を温かく満たしてくれる相手の存在」
ケレイブの背中をご機嫌になでていたエヴェトラの手がピクッと反応してとまった。きっとニジュのことを考えている。
エヴェトラが第二のミュリスとなるのは避けたい。バザウはまったく別のことにエヴェトラの注意をそらそうとした。
「エヴェトラ。ケレイブサイドはどんな料理なのか教えてくれ」
「バザウ。君だって絆を感じたことがあるはずだ」
今まで出会ってきた者たちの顔が脳裏に浮かぶ。
貪欲の市場での仕事仲間にして戦友のエメリ。
七空学園のヒロインでありながらバザウを愛した図書委員。
天空の山岳で互いを神と英雄と呼び合ったデンゼン。
真実の愛の箱庭で幼く純粋な恋心と憧れをバザウにむけたジョンブリアン。
境界線の村にいた気難しい少年コンスタントは、落ち着いた青年に成長した。
忘れることができないトゲをバザウの心に打ち込んだ愛らしいコボルト娘のプロン。
そして旅に出る前から友達のゴブリンの中でもとびきりおバカなサローダー。
「それさえも否定する気かい?」
バザウは無表情でかすかに目を伏せた。
(ずるい質問だ……)
ケレイブと話すほどバザウは自分が卑小な存在なのだと感じてしまう。
そしてこの創世樹の宿主が説く真理に飲み込まれてしまえば、心穏やかになれるなどとも思ってしまうのだ。
◆◇◆◇◆
ニジュ=ゾール=ミアズマ、イ=リド=アアル、エヴェトラ=ネメス=フォイゾンの三柱からなる「本当は怖い!? 妖精の秘密に迫る会」はこれで五度目の開催をむかえた。
主な活動内容はニジュの記憶とイの記録の照合。そこから妖精の目的を推測し侵略にあらがう。
妖精の痕跡を調べるだけならエヴェトラはいなくても特に支障はないのだが、この神は面倒な雑事を嫌な顔もせずに引き受けてくれた。重たい真実を抱えることになったニジュとイの精神の負担の和らげにもなった。
この活動は公にしていない。知性がものをいう分野なのに三獣神の助けが期待できないのはつらいところだ。
ニジュもイも、乱心でもしたのかと他の神から冷ややかに侮蔑された経験を持つ。声高に妖精の危険を叫ぶよりも裏付けをしてから慎重に動くことを選んだ。
豊穣神殿での生活は穏やかなものだった。ニジュはうじゃうじゃいる人間たちが気にならないわけではないが、神はその姿を命の目に映らないようにすることもできる。
薄明の菜園で目覚める。
正午の日差しを避けては神殿に潜み。
黄昏の影とたわむれた。
祈祷の香が焚かれ、供物のパンが焼かれるのを見守る日々の暮らし。
ニジュの体調が落ち着いているのを見て、エヴェトラはちょくちょく砂漠地帯にまで出かけるようになった。
その力を七十五にわかち、そのうち一つを神殿に残し、七十四の分身が砂塵の大地を這いまわる。
エヴェトラが外で何をしているのかニジュはたいして興味がわかなかった。動物神が移動したがるのは本能だからだ。
たまにエヴェトラは土産を持って帰ってきた。
サボテンの実を一粒。砂漠で見つけたスイカを一球。砂嵐にまかれて仲間とはぐれたラクダを一頭。
エヴェトラが連れてきたラクダが忽然と畑に現れた時も、神殿の人間たちは特に驚きはしなかった。エヴェトラが生き物を連れ帰るのはよくあることのようだ。
神殿で暮らす間にニジュは個々の人間の見分けもつくようになった。
用事があって出入りをする人間の他に、ずっとこの神殿に留まりここで寝起きをしている人間もいる。
たとえば人間離れした巨躯の園丁。もの覚えは悪いが一度覚えた作業は精確だ。土を掘る必要がある時、必ず畑の中にいるミミズたちに一言ことわってから仕事に取り掛かる。
感情を表に出さない巫女長は日々の仕事を勤勉にこなす。過去に何かがあったのだろうか。諦観の中で粛々と生きる彼女は人の形をした自然現象のようであった。
誰ともしゃべらないパン焼き職人がいる。人と深く関わるのを好まないが人を傷つけることもない。人嫌いではないようで、たまに神殿暮らしになれない者をこっそりと手助けしている。
ニジュは気づいた。エヴェトラの神殿に留まっている者たちはどこかしら癒えぬ傷のような悲しさを背負って生きている。
その日砂漠に出向いたエヴェトラの土産は、生きた人間の少女だった。
体には若干の傷と青あざ。悲しい獣のような声で泣く。応えるはずもない誰かの名前をずっと呼んでいる。
ニジュには少女がどうしてそんな状態になっているのか見当もつかなかったが、エヴェトラと巫女長は大方の経緯を察しているようだ。
泣き疲れた少女が眠りに落ちたのは夜もだいぶふけた頃だった。畑で空を見上げているエヴェトラに声をかける。
「神殿の住人はああやって増やしていたのか」
質問の内容はどうでも良い。ニジュはエヴェトラと話したいだけだった。
「いえ。あの子は……」
わずかにエヴェトラがいいよどんだ。
いったいどこまで少女の事情を正直に話して良いものかと考える空白があった。
「危険な場所で迷子になっていたから安全なところまで案内しただけですよ。でも半分はニジュさんのいうとおりかもしれませんね」
ニジュはエヴェトラの声を聞くのが好きだ。
もう何も心配ないと優しい音でくるまれる気がして、体のあちこちに堆積した嫌なものが消えていくから。
「お腹がいっぱいになって元気になったら本人の好きなところにいってかまいませんし、ここに残りたいと望めば拒みはしません。巫女長が仕事を割り振ってくれるでしょう」
元気になれば好きなとことにいってかまわない。
少女についてだけでなく、ニジュに対してもそう思っているように聞こえた。
「……」
まだもう少しここにいたい。いつになれば旅立つ勇気が出るかはまだ見通しもつかないが。
月光の降り注ぐ夜の畑でニジュはエヴェトラの隣に腰かけた。
夜明け前。熟練の農夫でもまだ気づかない、ほんのかすかな兆し。
エヴェトラは口から茎レタスの葉を放し、ニジュは職人が寝かしている途中のエンマー小麦のパン種をつつくのをやめた。
吹く風にほんのわずかな雨の気配を感じ取る。
「おお……! この乾ききった地で珍しいこともあるものだ」
「雨雲はここから遠いですね。この様子だとかなりの大雨になりそうです。それも急な……」
ニジュの歓喜。
エヴェトラの警戒。
「重畳、重畳。慈雨の喜びを我と共に祝おうではないか」
「そうしたいのはやまやまですが……。う~ん、ちょっと砂漠が気になります」
恵みの雨を素直に喜ぼうとしないエヴェトラの態度に、ニジュは小首をかしげる。
天を見上げたままエヴェトラはニジュに説明をしてくれた。
「こういう時はアレです。アレが起きるんです!」
「?」
非常にわかりにくい説明を!
「ぽちゃぴちゃさぱーん、ずどどどどど、だぱーん! ごしゃー! ごぶぼぼぼ……ってなるんです!」
「我には何が起きるのかまったく理解できない……」
「え……、そんな……伝わらないなんて……。じゃあ動きで説明しますね!」
「…………わ、わからぬ……」
のたくるミミズをニジュは真剣に凝視したが、そこから意味を見出すことはどれほど集中してもできなかった。
エヴェトラは苦心してうなりながら言葉をしぼり出した。
「アレですよ。砂漠の砂はガチガチに固まってると水がしみ込まなくて表面をさぱーっと流れていくのですが、それが大量になるとずどどどどど、っと一気にいくんです。危ないです」
砂漠で大雨の兆し。
雨が砂の表面を流れる。
二つの情報で、ニジュは何が起きようとしているのか理解した。
「……砂漠で突然水が氾濫するのだな」
「そうです! それがいいたかった!! それで、水が集まるような低くて起伏のない場所って砂漠の中では進みやすいので、生き物の通り道になってるみたいなんですよ」
砂漠に突然降る大雨は、大地にしみ込むこともなく低い場所へと流れ込む。
豪雨は濁流となり流れの先にあるものすべてを逃げ遅れた命もろとも巻き込んでいく。
砂漠で溺れ死ぬという皮肉な末路を迎える者が出ないよう、エヴェトラは巡検に赴く準備をしていた。黒い体はすでに七十五に分かれている。
ニジュの方を向いてすまなそうな声で。
「ニジュさん。せっかく誘ってくれたのに、いっしょに雨を楽しめなくてごめんなさい。砂漠で流される命がないか見にいきます」
「ああ……」
後回しにされたのは寂しいといえば寂しいが、不服はない。エヴェトラがしたいことを止めるつもりもない。
自分がついていっても役に立たないのが目に見えているから、その手助けができないことだけがもどかしい。
「其方はいくが良い。我はここで待っ……」
重い雨雲から最初の雨粒が落ちるよりも先に。
ニジュがエヴェトラを送り出すよりも先に。
その神は出現した。
「やあ、ニジュ。お気に入りの場所、変えたんだね」
「……シア」
遠く砂漠のどこかで、暗雲から最初の雨の一滴が落ちる。
「ここってお前の神域? 面白い構造だね」
「あ……、ありがとうございます」
他者の神域でもシアはいつもと変わらず不遜な言動であった。神殿の主に向けていい放つ。
「僕はニジュとゆっくり話したいから、お前にはその間の供応係を命じるよ」
「シアよ。それはかなわぬ。エヴェトラには急用がある」
文脈の流れから、エヴェトラ、が何を指している言葉なのかシアはその場で判断した。
シア=ランソード=ジーノームはどうでもよい相手の名前を覚える気がなかった。
「用っていうと、キツネの神からニジュのための薬をもらいにいくとかかな?」
「違う。エヴェトラは砂漠に出向く」
「砂漠? 砂漠とニジュにどんな関係があるっていうのさ?」
腑に落ちない様子のシアにニジュが事情を説明する。
緑の水球の中で気泡がはぜた。哄笑するかのように。
「命を救う? でもそれって自己満足の行為でしかないんだろう? いちいち僕にこんなことまでいわせないでほしいな」
シアは格下の相手のことなんて気にも留めていないくせに、自分に充分な敬意を払っているかどうかには敏感だ。
「理解に苦しむなぁ。目の前にいる僕に敬意を示すことよりも、いるかどうかもわからない命を助ける方を選ぶというのかい?」
横柄な言い方だがシアの主張にも一理ある。
助けを求める命というのはあくまで想定上の存在であり、そもそも砂漠の洪水は自然の道理だ。神が出向いて救済せねばならないという決まりはなく、むしろたいていの神々はなりゆきに任せて命が洗い流されるのを気にも留めずに静観するところだ。
一方、シアという災難はすでに目の前にいる。
「……供応係を拝命いたします」
七十五が一つに戻る。
大河に近い神殿にも雨雲がやってきた。砂漠の砂と違い、耕された黒土にはすぐに雨がしみ込む。この辺りなら雨が降っても地上が激流に飲み込まれることはない。
降り注ぐ雨が体を伝う感触も、呼吸の管を優しく満たす湿った空気も、神殿にエヴェトラが残ることも、すべてニジュが望んでいたことだ。
でもそれを喜ばしいとはとても思えない。
供物を納めるために作られた一室がシアとニジュの歓談の場となった。
「僕の大切な友に贈り物だよ」
虚空から真っ黒な何かが吐き出される。鈍く重たい音が響く。
神殿で焼かれたパンやナツメヤシの実、ハチミツの壺といった供物の前に、ドサリとそれは落とされた。
落下の衝撃でパラパラと黒い破片が神殿の床に散らばった。元は木だったようだ。黒いのは炭化した結果。
「君の神域を横取りした不届き者なら僕がその座から引きずり落してやったよ」
ニジュの代わりに雨の森を治めていた大樹の神。転がっているのはそのなれの果てだ。
少しぎこちない関係ではあったが、ニジュと敵対していたわけでもないし、神域を横取りしたというのも事実とは異なっている。
「……さすがに僕の独断がすぎたかな?」
思っていたような反応が返ってこないので、シアは少し気まずそうに弁解しはじめた。
「安心しておくれ。一番のお楽しみは残してあるんだ! 痛めつけはしたけどまだ完全には殺してはいないよ」
自らの手で引導を渡すも良し。意識を残したまま苦痛を与え続けるも良し。とシアは請け負う。
的外れの愛情。理不尽な懲罰。
シアはこれでニジュが喜ぶと本気で思っていた。
とても無邪気に。




