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バザウ、君は賢すぎる  作者: 下山 辰季
第六部

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88/115

信奉者と手の中の心臓

(夜が明ける前に死ななくちゃ)


 エメリは砕かれた星屑亭の二階の部屋にいた。

 手袋とレザーアーマーを病気の芋虫の脱皮のように、のそのそ脱ぎ捨てる。仮面も外して放り出し、毛布もかけずに冷たい床の上に倒れている。


(守れない約束なんてするべきじゃなかった)


 そもそも自分には他の誰かと約束をかわすだけの価値なんてなかったのだ。

 部屋に置かれたクズカゴの中では嘔吐物がすっぱい悪臭を放ちながら半乾きになっている。


(ああ嫌だ。何当たり前の権利みたいに俺は呼吸してるんだよ)


 息を止めてみたらしばらくの間は死体になれた気がして安らいだ。

 けれど無呼吸の安息は束の間で、惨めで汚らしい肉体はすぐに新鮮な空気を肺に取りこもうとする。

 呼吸の音はひどく見苦しく聞こえた。


(死ぬなんて簡単なんだ。ずっと息しなけりゃ良い。それなのに俺はそんな簡単なこともなしとげられない根性なしだ)


 手足がじわじわと冷えてきて、それで少しだけ心の苦しみが和らいだ。

 やがてふつりとエメリの意識は途切れた。彼にとっては残念なことに、それは死の訪れではなく眠りに落ちただけだった。




 上下左右。そこはどこを見ても乳白色のモヤに覆われていた。

 モヤのむこうには無数の気配があるのだが誰もエメリに関心を払っていない。

 頭からつま先まで鋼鉄の板を組み合わせてできたオークがいた。

 コボルトは真っ青なガラス細工の生き物で、エルフはミスリル製だ。


 自分の部屋で外したはずの仮面がエメリの顔にぴったりとはりついていた。

 それはもはや仮面ではなく、エメリの顔として機能する肉体の一部だ。

 頭は仮面で胴は服。手は皮手袋、足はブーツ。それが夢の中でのエメリだった。

 手首を見ても、いつも巻きついている黒い腕輪はない。もちろん大鎌も。


「生き延びたのか」


 白いモヤばかりの世界に小さなシルエットが浮かび上がって近づいてくる。

 危機を乗り越えるための相棒であり、禁足の森から生還させると約束した対象であり、大嫌いな他人。

 彼が一歩踏み出すたびにその足元で白い光が明滅した。

 エメリはわずかに後ずさる。


「その光を遠ざけてくれ。俺の姿を照らさないでくれ」


 エメリの頼みは聞き入れられなかった。夢の中のバザウが穏やかに笑った。エメリの手を取る。血のぬくもりを感じない、冷えた磁器のように硬質な感触だった。

 バザウの体は緑に染色された磁器でできていて、間接部分には金が使われている。黄色と赤の目玉は宝石だった。


「今日までよく頑張ったな」


 夢で聞くバザウの声は、ステンドグラスから降り注いでもいるかのようにきらびやかで非の打ちどころのなく、とても高い場所から響いてくる。


「もう無理に生きていなくても良いんだぞ」


 臓腑の奥から背筋を駆け登る嫌な予兆を感じた。

 バザウと対面しているだけで吐き気がこみ上げてくる。


「こんなに弱くて醜くて浅ましくて、それでも生きるのはつらいだろう」


 仮面の継ぎ目がぷつりと裂けて、こらえる間もなくエメリの口から粘液が噴出した。

 背中を丸めてうずくまり、汚らしくドロドロしたものをただ体から吐き出すしかない。

 想像の中のバザウの幻影は作り物めいた優雅な表情のままで、汚らわしいエメリの嘔吐物を平然と見つめていた。

 吐き出した粘液には、灰色をした腐肉とも膿とも判別のつかない不浄の塊がいくつもまじっていた。


「ああ……、生き汚いな」

 

 バザウが空中で指先をくるくる回すと、灰色の塊は小さな銀色の星となって空に浮き上がって消えていく。

 後にはだらだらした粘液だけが残った。


「こればかりは俺にも救いがたい」


 びっと風を切る音と共にバザウは大きく腕を横に振るう。エメリ自身がさっき吐き出した粘液が顔にむかって返された。

 挑発するような冷笑がその場にうずくまるエメリを見下ろしている。


 エメリの目玉の裏側で暴力的な何かが爆ぜた。

 言葉にすらなっていない醜い音をノドの奥から引きずり上げて。

 道理をなしていない生身の感情を穢土えどの熱から絞り出して。


「邪魔しやがって! まぶしくて目障りなんだよ。俺が這いつくばりながら生きようとするのを、高いところから邪魔しやがって、お前はぁあ!!」


 鬱屈した劣等感が爆発し高く輝く者につかみかかる。


「お前が死ぬよりも、俺が死んだ方が損害はないよな!? 俺が生きているよりも、お前が生きている方を他のヤツらは望むんだろう!?」


 憎い者を乱暴に地べたに引き倒す。

 自分よりも小さな体にまたがり、恨呻こんしんの力でその首を絞め上げる。

 けれど緑肌に浮かぶ涼やかな笑みは崩せない。

 こんな事態になってもモヤに見え隠れする多くの他人の群れはエメリを気にも留めもしない。意に介さない。


 これだけの力で首を絞められているのに、彼の声は少しもかすれることなく明瞭に響く。


「お前は醜悪だ」


 頭に吹き荒れる激情の砂嵐は勢いを増して、エメリの視界から色彩が消える。まともに周りが見える範囲は点ほどにまで収縮した。

 夢の世界のすべてが暗転。

 磁器が割れる音。

 その破片を乱雑にかき分ける音。

 物を遠くに投げ捨てる音。

 エメリの手に伝わってくるのは冷たく無機質な感触ばかりだ。


「あ?」


 右手がぬるりと温かい。

 それは脈打っている。心臓だ。磁器や金属の作り物のパーツではなく、生々しい肉体の一部。

 エメリは嬉々として叫んだ。


「なんだ! 同じだ! お前だって俺と同じじゃねえか」




 自分の声で目を覚ます。

 すっかり冷えた床にうつ伏せの姿勢で寝ていたらしい。

 夢で右手に伝わっていた脈打つ心臓のぬくもりの正体は、鎧戸の隙間から差しこむ朝日だった。

 ベッドは朝日が直撃しない位置に置いてある。エメリがまともに正しくベッドで寝ていたらきっとこの光に触れることもなかった。


「ひっでぇ夢……」


 気だるくのそのそと起き上がる。

 乾いて苦くて臭い寝起きの口中にうんざりさせられた。


「けっきょく今日も死ねずに朝がきちゃった」


 自分の素手を見る。


「……俺は本当にあんなことがしたかったわけじゃない……って思いたいなー……」


 座って床の上に手をついて、ずりずりと朝日の中に移動させてみる。

 温かい。が、隙間程度の朝日ではエメリの体すべてを温めるには足りない。


「……」


 エメリは迷いの後、思い切って鎧戸を全開した。

 手袋ごしでもなく、仮面ごしでもなく、光を浴びるのは本当に久しぶりのことだった。




「おはよー」


 階段をおりて、カウンターの中で仕事をしていたカスラーに声をかける。

 砕かれた星屑亭のほとんどの客はこんな朝早くから仕事に出ることはない。一階にいたのはカスラーと早寝早起きの垢ねぶりだけだった。

 沸騰する小鍋から視線をそらさずにカスラーが応える。


「珍しい時間に起き出したな」


 カスラーは卵のゆで具合を注視している。半熟にも満たないドロドロ未熟ゆで卵がカスラーの信条である。


「ゆで卵? 余分にあるんなら、俺も腹ごしらえしときたいわ。大事な用がある日ほど朝食をおろそかにしてはいけない……というのは別にネメスの教えにはないけど、ネメスだったらきっとそういうはず!」


 カウンター席に着いたところで、カスラーと垢ねぶりの視線がエメリの顔にむかう。

 いつもつけている仮面は部屋に置いてきたまま。


「ねー、大丈夫? 固ゆでになっちゃわない?」


「! ああ、そうだなっ……すまん」


 垢ねぶりには配慮というものが一切ない。

 ジロジロ覗き込んでエメリの顔を眺めた後、機嫌良さそうに歌った。


「えっしし。二目と見れぬひどぉい面」


「お互いさまっしょ」


 パンとスープとゆで卵をパパっと腹に詰めると、エメリは砕かれた星屑亭から出発した。

 朝の貪欲の市場を軽やかに駆け抜ける。


 市場の雰囲気が慌ただしい。シャルラードの屋敷への道に傭兵が寄り集まっている。

 シャルラードが禁足の森襲撃のために召集をかけたのだろう。


 開店前の薬屋に駆けこんで、ネハミダの薬の小瓶を兎印のコイン山積みと引き換えに持っていく。営業時間外に押しかけた迷惑料もふくめて。


 路地で生ゴミという名のランチをあさる食肉用家畜豚をひょいと飛び越し、明らかに過積載の荷台を引かされている労役用人間に冷やかしの励ましを送って追い抜いていく。

 門番オークに凝視されながら門を出て、エメリは禁足の森へとむかう。




 近づいてきた禁足の森を眺める。

 影の精霊を監禁した魔技型マギケを起動させた。

 ネメスの大鎌はなくし貴重な竜牙兵の種も使い切った。

 使えるものはナイフと鎖、さっき買ったばかりのネハミダの薬の小瓶。


 まずはバザウとはぐれた地点を目指す。

 エルフたちと交戦した場所には竜牙兵の残骸が散らばっていた。

 竜牙兵を閉じ込めたアルヴァの氷塊は溶けていない。そこだけ時が停止しているみたいだった。


 地面のキノコやコケの荒れ具合を見る。

 禁足の森のエルフはいかなる時でも森へのダメージを最小限にとどめる動きのクセがついている。

 だからエルフは朽ち木に群生したグロテスクな傷口に似たアラゲコベニチャワンタケを蹴散らしたり、地面に落ちた海綿みたいなハナゴケに鋭い足の爪の跡を残したりはしない。

 バザウがどこにむかっていったのか、エメリは痕跡を追う。


(ふーん……。自分一人だけで逃げてったんだと思ってたけど……)


 激しく崩れ壊されたキノコに目をとめる。

 すぐそばの木の幹には鋭い穴がうがたれている。二ヶ所。森の木を傷つけた武器はすでにエルフの手によって取り除かれている。

 傷ついた木をさらに見上げれば枝の一部がひどく荒れていた。


(隠れるために木に登るのはエルフや精霊相手にはむしろ不利だし、逃げ延びるのが目的なら樹上のエルフにあえて挑む無茶はしないよなー)


 自分で導き出した結論に、エメリは改めてバザウを苦手に思う。

 まぶしい相手を嫌う気持ちがなくなったわけではない。

 けれど約束は大切で、それにもうエメリは光るものをやみくもに避けるのはやめたのだ。


「……」


 発見した。

 バザウの爪先は地面についていない。その足は天をさす。上下を逆にした姿勢。

 風でも吹けばゆらゆら揺れそうに儚いのに微動だにしない。背にした古木と一部同化して固定されている。

 腹部には乾いた血の跡。開いていただろう傷口は盛り上がった樹皮で修復されていた。

 ゴブリンだった頃のシルエットをたもったまま体のすべてが樹木状に変容している。

 変容を免れた衣服が森の濃霧と朝露をぐっしょりと生地に吸いこんでいた。

 濡れた服と動かない体という組み合わせは死体めいていて、エメリは助けにきたことも忘れてしばらくその光景を前に立ち尽くす。


(こんな姿に成り果てても、ここにいても良いって肯定を自然から受けてるみたいで癪に障る。やっぱり俺コイツ嫌いだわ)


 エメリは小瓶の封を開ける。途端に立ち上る耐えがたい悪臭。

 ネハミダ薬の主な材料は、ネハミダの唾液毒とフェアリーまるごと一匹分以上を粉末になるまでよくすり潰したもの。

 毒としか思えない色と臭いの薬をバザウの体に流しかける。

 薬が触れた箇所から木と肉が焦げる臭いが漂う。煙を立てながら樹皮は焼け溶け、血のかよったゴブリンの緑肌へと変わっていく。


 小瓶の中身を使い切る前にバザウはゴブリンの肉体を取り戻した。

 それに伴い背中側の古木との結合も解けたので、重力に従って意識のない肉体はずり落ちる。

 エメリはその片方の足首を雑につかみ、完全に脱力しているバザウの体を適当に地面に寝転がした。


(さーて、問題は中身が壊れちゃいないかってことだけど。寝てちゃわかんないよねー、さっさと起きろっての!)


 まだ少し残っていた小瓶の中身をバザウの手に垂らしてみる。

 黒紫色の水滴は緑肌の上で一瞬だけ丸い球を形作り、白い煙と悪臭を出しながら蒸発するように消えていった。

 バザウの手が痛みの刺激でビクッとはねる。


「……い……っ」


 黄色に緋色の目がゆっくりと開く。

 眼差しはうつろで、さすがに思考力も運動力もまともに働かない様子。


(ぼんやりしてるけど、正気を失ってるって感じじゃないね)


 エメリは撤収を意味するハンドサインを作ったが、バザウはそれをパッと理解できなかった。

 ろれつの回らない舌がたどたどしく言葉を作る。


「……ぅ、あ……。誰だ……?」


 森の中ではあまり音を立てたくないエメリだが、バザウがこんな状態ではやむを得ない。


「エメリお兄さんです」


「ああ……。同じ臭い、だな」


 バザウは安心したようで、目を閉じてすっと体の力を抜いた。

 せっかく起こしたばかりで寝入られては困る。ここは砕かれた星屑亭の寝台の上ではなく、禁足の森の地べただ。


「しっかし、よく耐えれたね」


 目覚めかけた意識が途切れないようにエメリはバザウに話しかける。

 閉じた目蓋の下でバザウの目玉が動き、うっすらと目が開いた。

 エメリの声の内容を把握する間を置いてからボソボソと。


「……不思議と……それほど苦痛ではなかったんだ。体が変容していく途中は恐怖を感じたが……、完全に木になってしまえば……それからは実に穏やかな時間だった」


 バザウは何かを思い出したように、一瞬だけハッと目を見開いた。


「エメリ……耳を貸してくれ」


「はいはーい。ちゃんと返してね」


 バザウの上体を少し引き起こしてその声を聞く。

 本当はさっさと起き上がって自力で動いてほしい。

 などと不平をいだきながらバザウの声に耳を傾けると、驚きのあまりエメリのノドから変な声が出た。いつだって変な声なのだが。


「ちょあっ!? マジで!? 冷静になって考えてくださいよ、バザウさん。それはすべての感覚を奪われ体の自由もきかない状況下での幻覚や妄想じゃあないって自信を持っていえます?」


「……感覚がなくなる……というのは動物の立場での誤解だ。植物には植物で外部の情報を得る手段がある」


「えー、いやー、でもどうしてそんな重大ヒントというか正解そのものがわかっちゃうようなことをご丁寧にエルフがするわけ?」 


「……ヤツらも樹木になった時の状態を実体験としてよくしらないのでは? 自然を愛する高貴な森の民たるエルフさまに、体に槍をぶっ刺して森と同化する習慣があるのなら話は別だが」


 話し方がだいぶバザウらしくなってきた。

 起こした背中を支えているエメリの手にかかる負担も減る。


「バザウちゃん、立てそ?」


「そうだな、早く市場に戻らないと……」


 黒く鋭い足の爪が軽く地面をかいた。

 小刻みに震える脚には、まだあまりしっかり力が入らないようだった。


「あ、聞いただけ。動かないでね。……危ないから」


 敵に隙を見せてしまうから。

 エメリは背後からこちらの様子をうかがっているエルフの視線を感じ取っていた。冷静に気づいていないフリを続ける。

 冷静に、焦っていた。


(コイツがこんな調子じゃキツいな。俺は正面切って戦うのダメなんだよ。弓矢を防ぐ手段ももうないし、扱いなれたネメスの大鎌もないし)


 一か八かで隠し持った鎖に触れた時に。


「ダメだ! 殺すな! 小鬼ゴブリンは生かしておけ」


 女の声がした。アルヴァ=オシラだ。味方であるはずのエルフの先制攻撃を妨害したどころか、戦い自体をやめさせようとしている。

 バザウはその声でようやくエルフに気づいたようだが、正直この状態では戦力にはカウントできない。

 矢の先はエメリの背中にむけられたまま、鋭い批判の声がアルヴァに飛んでいった。


「努々《ゆめゆめ》忘れることなかれ。恵流風エルフと精霊は並みなり。ましは我ら恵流風エルフおきつにあたはず」


 エルフと精霊の関係が対等な協力関係にあるのなら、精霊側の命令をエルフが必ずしも聞き入れる道理はない。


 引かれた矢は放たれることはなかった。

 青白く輝く冷気の帯が飛び、エルフの戦士は巨大な水晶に閉じこめられた。

 アルヴァ=オシラの指先からきらめく粉雪がふっと舞い散っていた。

 危機を脱したエメリが小声で冷やかす。


「あーあー。怖いわねー。あのとち狂った姫騎士ちゃんってば仲間をぶっ殺しちゃったわよ」


「殺してなどいない! この者には少し休んでもらっただけだ。そこの小鬼ゴブリンにどうしても確認しなけ……」


 息まきしゃべる顔に容赦なく鉄の鎖。アルヴァの眉間に鎖の錘が振り落された。

 エメリは、バザウと話すことがあると主張するアルヴァを躊躇なく攻撃した。

 騒がしくされてはたまらない。敵を殺せる隙がある時に攻撃の手を休めるなんてバカげている。


 目を見開いたアルヴァの輪郭そのものが痙攣したかと思うと、ドレス風の美しい戦装束を身にまとった乙女の姿は霧の粒となってかき消える。

 アルヴァがいた場所にはすっかり萎びて乾ききったヤドリギの小枝の束が残されていた。


(やってみるもんだわ。大鎌以外の武器じゃあ、せいぜい動かない的や戦う力のないウスノロぐらいにしか当たらんと思ってたけど、案外俺もできるじゃないの)


 樹木の上からの気配にエメリは静かに視線をむける。

 森の古木に根付いたヤドリギ玉に霧が集まり、再び戦乙女の形がなされている。


「くっ……。邪魔をするな! 私はただ小鬼ゴブリンと話をしようと……」


 エメリはナイフを投げた。

 大樹からヤドリギの玉が切り離されて、ヤドリギに集まっていた霧は地面に落ちた衝撃で散り散りになる。

 しかし案の定、少したてば別のヤドリギからアルヴァの幻影が生成される。


「バザウちゃーん。精霊を殺しきる方法しってたら教えてくんない?」


「非常事態だ! チリル=チル=テッチェは助けにこない。知識豊富で自然に詳しいエルフであっても創世樹のことは何もしらない。私が頼れるのはお前だけしかいない。お前の知恵と経験が必要だ」


 チリル=チル=テッチェ。

 アルヴァが口にしたその神の名で、バザウの目に荒々しい生気が戻るのをエメリは見た。




「……お前は創世樹の宿主か。俺の力を頼りたいとはどういう風の吹き回しだ?」


「ちょっとバザウちゃんっ。コイツの話に耳貸すの?」


 バザウは不満そうなエメリの顔を見た。仮面がないのでその表情がよくわかる。

 エメリの髪がピンク色のへちゃっとしたモヒカンをしていることも、その耳が他のオークよりも細長いこともわかった。


「こんなヤツ信じられないっつーの。俺らをここに留めて始末するつもりだよ。借りたお耳を返しちゃくれない」


「……そのつもりなら、先ほど絶好の機会をふいにした行動の説明がつかない」


 仲間であるエルフを氷に閉じこめてまで攻撃をやめさせた。

 今さらバザウたちを油断させる演技など必要ないはずだ。


「そーだけどさー。コイツ変な力使うし、俺的には生かしておきたくないない、なななー、ななないなー。ね、殺そ? それが無理なら煙に巻いて逃げちゃお?」


 エメリはアルヴァ=オシラを警戒しているようだ。

 貪欲の市場に所属するスカウトとしてその判断は妥当だ。バザウも危険は承知している。

 だが創世樹計画とチリル=チル=テッチェの名を出されて、何も情報を得ずに引き返すことはできない。

 話をするということは創世樹の宿主のアルヴァから情報を引き出すチャンスでもある。


「怖いのならお前は好きに帰るが良い。お前はいらない。私に必要なのはその小鬼ゴブリンの知識だけだ」


 アルヴァはしっしとエメリを追い払う仕草をした。


「ハッ! ハァ? ハァアアアンッ!? 何いってんだこのブス! 俺がどんだけの苦労と困難と嫉妬と憎しみと汗と涙とゲロと鼻水を乗り越えて、約束を果たしにきたと思ってんですかね! ここで俺だけはーいじゃあ帰りまーす! って先に帰って、その後バザウちゃんの行方はようとしてしれません……バッドエンド……とかなったら無事に森から帰れたことにならないでしょ! 家に帰るまでが遠足でーすーかーらー!!」


 結局エメリもその場に残ってアルヴァの話を聞くことになった。




「正道をいく者の意志をくじく緑肌小鬼ゴブリンに注意せよとチリルから忠告を受けている。お前は創世樹を枯らす者だな?」


「バザウだ。話を聞こうか、ヤドリギ女」


「……アルヴァ=オシラ。創世樹を手にした時にこの名も得た」


 ネグリタ=アモルは真実の愛という幻想と呪縛から逃れた。

 デンゼン=ヤグァラは無敵の強さを追い続ける輪廻転生から断ち切られた。

 ティモテ=アルカンシェルは至純の萌えという当初の理念が万人の承認へと変質したことを認めた。

 アルヴァ=オシラは不動の過去を掲げた根源世界に手に負えない異変が生じ、敵対者であるはずのバザウに救いを求める。


「過去と伝統を尊ぶ私の根源世界がおかしなことになり一向に事態が収束する気配がない。……そこの男が何かを投げたのが原因だ。ソイツが悪い。得体のしれない異変を起こした得体のしれない変なヤツだ。人相も変だ」


「そういうこといっちゃう? 奴隷市場で高値がつきそうなそのキレイなおつらの商品価値をマイナスにしてさしあげても良くってよ?」


 アルヴァ=オシラの不滅の過去はエメリのせいでめちゃくちゃになった、とアルヴァは主張している。

 根源世界。宿主の心を反映している仮想空間だ。創世樹はこの仮想世界に根を下ろして成長し、現実世界での影響力を強めていく。

 そんな場所で宿主であるアルヴァ=オシラの意志さえも超越して世界を改竄した力とは、バザウにも想像がつかない。


「何をやらかしたんだ、エメリ……」


「何って……、俺はネメス復活の暁に捧げようと思って持ってたおっぱい石をそーいっ!! と、ぶん投げただけ。石ころをポイしただけで狂う世界の方が不完全で不安定なんじゃないでしょうかね。俺は全然悪くありませーん」


 きっかけは妖精の埃石を投げたこと。

 露店でバザウも見たがエメリが買った石は特別な力を秘めているようには思えない。

 ありふれた、当たり前の、ただの妖精の埃石でしかない。


 バザウは会話の中で感じた疑問をアルヴァにぶつけた。


「根源世界は宿主の心と関係が深いものだ……。精神を反映する根源世界がそんな異常事態になったわりには、思考も感情も落ち着いているな。多少の動揺はあるが、重篤な狂気に陥っているようには見えない」


「そうだな。変異後の世界は、何もかもデタラメではあるのだが血生臭いものや不快感をあおるような変化は確認できなかった。たしかに奇怪なのだが、ある意味では穏やかなのだ。雪原はマーガレットとクローバーの花畑へ。海水はオレンジの良い香りがした。空にはラメが散らされ、生きたハクチョウが雲そのものとなる」


「異常というからにはもっと物騒なものを想像していたんだが……ふむ、なんというか……平和だな」


 古さが無二の価値であり実際に最優秀の性能を付与される世界で、埃石は大地も海も空も変容させた。

 そうなると、考えられることの一つは。


「鉱物というのは……ごくありふれたものでも案外途方もない昔から存在しているそうだ。埃石は剣より古かった。……という結論でどうだろうか?」


「はい! この話は、それでおしまい! 帰りましょ!」


「バカな! この剣は千年以上の歴史を持ち、しかも素材は45億年前から存在する隕石だ!」


 バザウは憤るアルヴァを手で軽く受け流し、さっさと帰ろうとするエメリをもう片方の手で引き止める。


「他の可能性で思いつくのは……。俺は、根源世界が宿主以外の存在の精神に影響を受けて変化したのを見たことがある」


 ネグリタ=アモルの陰惨な黒髪屋敷をビアンキが白馬の王子の独壇場に変えたことがある。

 ただ、ビアンキはもともとチリルが目をつけていたほどに強固な意志の持ち主だ。


(エメリがビアンキ同様にもともとの創世樹の候補者だった、とすれば一応は謎が解けるが、どうも腑に落ちない……。変化した世界の様子がどうも妙だ)


 バザウはエメリを横目でちらりと見た。


「あの場には俺とこのクソ女しかいなかったと思うんだけどなあ。俺の心を反映したんなら、あんなファンシー☆メルヘンな世界にならないからね! 絶対に」


「ククッ、もっと面白おかしい世界になりそうなものだよな」


「面白おかしい? ちっちっち、バザウちゃんは俺を冗談ばかりいってるひょうきん者だとでも思っているのかな? 本当のエメリお兄さんはシリアスダーティで危険な香り漂う天涯孤独の敏腕スカウトですからー!」


 自分をビシィっと指差してクールっぽいポーズをきめるエメリをアルヴァは盛大に無視した。


「変容したものは、一つを除きどれも私がすでにしっているものだった。ハクチョウだとかオレンジの香りだとかな。あの異変の最中で唯一未知だった何か……。直視してはいけないと直感したのは……その男の顔だ」


「あれあれ? ケンカ売られてる?」


「声が明らかに別人のものになっていて、仮面の奥では何かが発光していた」


「おお、俺はいつの間にそんなハイレベルな一発芸を覚えたんだ。まあ、何? あれだね。……たしかに変な空間にいた時、意識が途切れてた空白期間はあったよ」


 尻すぼみになった言葉の後でエメリは困惑の沈黙に入る。

 単に意識を失っていただけでなく、その間に自分が正体不明の不気味な存在になっていたと聞かされるのは、あまり気分の良い話ではないだろう。


「その男から発された楽器のような声は、こんなことをいっていた。声の手紙を星の波長に乗せて送っている、千匹獣座の向こうから、と」


 その不吉な名前にバザウとエメリは言葉を失った。

 禍星まがつぼし千匹獣座。

 ゴブリンでも、オークでも、人間でも、エルフでも、ドワーフでも。千匹獣座を恐れないものはない。

 あの混沌の神ルネでさえも。




 遠くの方から尋常ではないエルフの警戒の声があがった。

 樹木の精霊の悲痛な嘆きが森を震わせる。

 アルヴァは慌てふためいた。


「くっ……! これは何事だ!?」


「ねえ、ちょっと、あっちに何かある! ここからだと見えにくいけど木の陰にチラッと妙なものが……」


 エメリが深刻な表情で指差した先は森の木々と垂れ下がるサルオガセでよく見えない。

 アルヴァはジッと目を凝らしたがエメリのいったものがいったいどこにあるのかわからなかった。


「おい、いったいお前は何を見……」


 エメリの姿は忽然と消えていた。もちろんバザウも。

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