ゴブリンと一人の英雄
夢の中だ、とデンゼンは思った。
スラムの一角の今にも崩れ落ちそうなアパートの一室に、幼い自分がいた。
部屋に明かりはなく薄暗い。
すでに窓としての機能を果たしていない木枠からは、排ガスとドブ川の臭気がじわりと入りこむ。
デンゼンの魂にまで染みこんだ、嗅ぎ慣れた臭い。
母親の姿はない。
きっと今頃、働いているのだろう。
自動車の走る大通りに出て、若い母は同業の女たちと共に夜の街に立つ。
肌を露わにした扇情的な出で立ちでドライバーの男に意味ありげな視線を送る。
デンゼンの母はそのような手段で、自分と息子の生活を成り立たせていた。
何人かの客は母をとても乱暴に扱った。
まるでゴミクズかムシケラでもあるかのように。
そして機嫌の悪くなった母は、怒りの矛先をデンゼンへむける。
そんな暮らしに、デンゼンは特に疑問も不満も抱いてはいない。
むしろ自分を取り巻くスラムの環境に違和感なく適応している。
力が全て支配するルールは何よりも明白でわかりやすかった。
それはあらゆる疑問への答えをくれた。
暴力こそが、デンゼンにとっての世界の真理。
年上の子供たちから狙われて、せっかく拾った食べ物を強奪された原因は何か。
それはデンゼンが弱いからだ。
酒気を帯びた男から手ひどく殴られても、なすすべもないのはどうしてか。
それはデンゼンが弱いからだ。
大好きな母が自分を抱き上げることはなく、他の男の体にばかりすがりつくのはなぜなのか。
それもやはりデンゼンが弱いせいなのだ。
罵声や暴力を浴びせられても、デンゼンは母親のことが好きだった。
母を慕う子。
聞こえの良い言葉だが、デンゼンの感情は決して美しいものではなく、醜怪でおぞましい。
デンゼンの夢はただ一つ。
強くなって、多くの男たちと同じように自分の母を抱くこと。
柔らかで温かく良い匂いのする何かに触れてみたい。
秘めて抱いたのはそんな願望。
……デンゼンは幼い頃から、ありとあらゆるアブノーマルで暴力的ですらある男女の行為を目にしてきたが、人間の性に関する根本的な事実だけは欠落していた。
この行為が本来は愛し合う男女の間でおこなわれその結果二人の子供ができるのだと、彼はその短い生涯の間にしることはなかった。
デンゼンの不完全で歪んだ世界観においては、赤ん坊はちょうど糞便か何かのように女の体内に勝手に生じて勝手にひり出されるものだった。
よって、当然自分の体や命も、ひいては他者についても、スラムの側溝によどむ汚泥と大差のない価値しかない。
壊れかけた頭で、ぼんやりと、デンゼンはそう認識している。
「あいかわらず、きったねえガキだな。テメエが部屋にいると臭くてしょうがねえ」
部屋にいないはずの母の声がした。
夢の世界ではいきなり時間や場所が変わる。
バスルームのシャワーの蛇口は錆びている。
殴る蹴るなんて大騒ぎはやる側もくたびれるらしい。
その点、冷たいシャワーを浴びせてから屋外に放り出すだけのこの方法は、執行者にとっては手軽で楽だ。
デンゼンにとってはお馴染みの罰だった。
タイルの剥がれかけた床に突き飛ばされる。
顔から着地。
前歯がガリッと口内をえぐった。
鼻血がダラッとしたたった。
母親はチッと舌打ち。
「何してんだ、テメエ。汚してんじゃねえよ」
このボロアパートのシャワーは、まるで折檻用に作られた特注品だ。
骨まで凍りつく冷水か、火傷しそうな熱湯しか出さない。
「ゴミクズ。ムシケラ」
金ダライに水がはられる。デンゼンの体に負けないぐらい、あちこち傷やヘコミがある。
幼い子供一人なら、無理やりつめこめそうなぐらいの大きさだ。
「どうして産まれてきたんだよ。ああ!?」
この日デンゼンはいつものように寒空に放り出されはしなかった。
母の手が頭に伸びる。
乱暴につかまれ、押さえられる。
デンゼンの耳も鼻も口も、水中へと沈みこむ。
「……堕ろしたかったのに……」
ことあるごとに母はそういっていた。
実際、そうしたかったのだろう。
スマートなウエストを台なしにしてくれた、厄介な寄生者をどうにか追い出そうと、彼女は色んな方法を試みた。
だが、ダメだった。母体に悪いとされていることはあらかた実施されたが、デンゼンの命はそうとうしぶとい。
十月十日。デンゼンは女の胎内を占拠し、養分を奪って成長した。
「もー無理だわ。テメエの面倒見るのうんざりだわ。自分一人が生きてくだけでいっぱいいっぱい……。だからさぁ、臭い臭いゴミクズは」
水の中で最期の息が気泡となって出ていく。
「消えちまいなよ」
どこかで、ジュッという音がした。
命の火が、消える音がした。
そうして世界は真っ暗な空間へと変わる。
あれほど焦がれていた母という女が、どんな顔をして、どんな声をしていたのか。
デンゼンはもはや何も思い出すことができない。
ただ魂に残っているのは、どんな男よりも強くありたいという熱望。
そして強さの頂点に立つ者だけが、あの柔らかで温かく良い匂いのする何かを手にする権利を持つというルール。
それだけは忘れていなかった。
パチパチと誰かの拍手。
「素晴らしい! なんたる悲劇! 胸を打たれました」
場違いなほどに明るい声。
「わはっ! お目にかかれてとってもハッピーです。君の純然たる魂は、世界を変える可能性を持っています。ぜひ、そのお手伝いをさせてほしいのです!」
満面の笑みをたたえてソイツは闇の中にぷかり浮いていた。
「申し遅れました。崇高なる意志を司る心の神。名前は、チリル=チル=テッチェです」
デンゼンの精神は夢から現実へと帰還した。
「ん」
全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
不快な感覚。全身が痛んだ。
何かを思い出していたようだが、すぐに忘れた。
思い出せないのなら、大したことではないはずだ。
そして何よりデンゼンは空腹だった。
獲物はいつでも充分な数が狩れるわけではない。
こんな事態に備えて、ちゃんと保存加工をして地下室に貯蔵してある。
腹が減った。
空腹を覚えるままに、デンゼンはベッドから起き上がろうとして、動きを止めた。
「バザウ?」
ベッドの端にもたれかかり、ヒスイの神がすやすやと安らかな寝息を立てていた。
床には手当てに使った道具が散らかっている。
多分、治療の処置を済ませた後、疲れ果ててその場で寝てしまったのだろう。
「寝……て、る」
普通の人間よりも、やや大きめのゴブリンの頭部。
赤い目は閉ざされている。眼球を覆うまぶたは薄くて、繊細な若葉のようだった。
バザウの腹は静かに上下していた。呼吸のたびに筋肉の隆起が見て取れる。
そっと声をかけてみたが、起きる気配はない。
「ん、と。困った」
バザウは小さい。
だからデンゼンは時々怖くなる。
何かの加減で。ふとしたはずみで。愚かな不注意で。自分の手がこの小さな神を壊してしまうのではないかと。
触れようとしては手を引っこめ。
そんな躊躇を数回繰り返したすえ、デンゼンはバザウの腕を軽く突いた。本当に慎重に。
「お……、起きて。バザウ。起きて」
「……くふぁ~……」
目覚めたばかりの神は、しばらくぼーっとしていた。
赤と黄で彩られた瞳はアクビの涙で潤っている。
ぼんやりとした寝起きの目が本来の理性を取り戻すのに数秒ほど。
バザウの頭がクテッと傾いて、その視線がデンゼンとぶつかった。
目をそらされることも、睨みつけられることもない。
心地良い視線に心が繋ぎ止められる。
ゴブリンの小さな牙がチラリと見える。
バザウの口が一度ニッと細まってから、ゆっくりと開いた。
「おはよう」
「すまんな……。つい気が緩んで、寝入ってしまったようだ」
弁解しつつ、バザウは起き上がる。
疲れていたとはいえ、ケガ人を放っておいて眠りこけていたことにバザウは少し気が咎めた。
罪悪感の埋め合わせのようにデンゼンへ質問を浴びせる。
「気分は良いのか? 体調の方はどうだ?」
「ん。悪くない。どっちも」
デンゼンはそういったが、額に脂汗がにじんでいるのが見えた。
「……汗をかいているな。体を拭いた方が良いぞ」
バザウは清潔な布を手にとった。
傷口を刺激しないよう、注意深くデンゼンの体を拭いていく。
いくつかの小さな傷はすでにカサブタでふさがっている。
「申し分ない生命力だ。この調子ならすぐに良くなるだろう」
「ん」
「だからといって、無理は禁物だぞ。わかったな?」
「ん」
「暴れたりせずに、良い子で大人しくしていることだ」
「んん?」
デンゼンが首を傾げた。
「良い子、で、大人? それは、難しい注文」
バザウは軽くため息をついた。
「では、大人しくだけしていろ。大人しく、だ。……お前も晴れて、成人の儀式を受けることだしな」
デンゼンの鼻梁に走る傷のそばでバザウは手を止める。
獣が残した爪痕。
「デンゼン。……村の誰が、お前のことを……なんといおうと……」
テオシントの言葉が頭に浮かぶ。
戦士の傷を授けるのは、父から子へというのが古よりの習い。
人喰いの獣がデンゼンに傷をつけた。デンゼンは人喰いの獣を殺した。
やはりこの者は呪われている。デンゼンは野獣の息子であり、同時に父親を殺す者だからだ。
バザウはシャーマンの声を振り払う。
「俺はお前に、戦士の傷を授けたいと思う」
儀式に使う特別な木の枝をよく焼いて炭粉を作る。
バザウはなるべく炭粉がサラサラになるように念入りに砕く。
これを鼻筋の傷にすりこむのだ。黒い印は戦士の肌に一生残る。
「お前があの時きてくれたおかげで……、俺たちは助けられた。お前の勇敢な行動に感謝する。それから……、たった一人でそんな危険な行為をさせてしまってすまない」
バザウは炭粉をそっと手先にとって、デンゼンの鼻を横切る傷をなでた。
「バザウが承認する。若者デンゼンは英雄であると」
儀式は完了した。
シャーマンから疎まれた粗暴な青年は、ヒスイの化身から一人前の戦士としての証を得た。
「ん。あの獲物。ずっと、狩れるチャンス、狙ってた」
「ああ。そうなのか」
バザウはデンゼンと山で遭遇した時のことを思い出す。
人喰いの獣とバザウとの膠着状態。そこにデンゼンが現れた。
(……デンゼンは俺と出会う以前から、獣を追っていた)
「! バザウ、どうしよう」
「なんだ」
「俺、ケガで寝てたから。仕留めた獲物の処理、してない。どうしよう。困る……。もったいない!」
危険な肉食獣に対して獲物という表現が使われることに、バザウはわずかな違和感を覚える。
だが、デンゼンの言葉はもともとおぼつかないのだ。
バザウは深く追求することはなかった。
「毛皮でも剥ぐつもりだったのか? ……わかった。後で確認しておく」
「ん。ありがとう、バザウ」
デンゼンが頭をペコッと下げた。
それと同時に、ぐきゅう~と腹の虫がなく。
「ククッ……、腹が空いているのか。まずはお前の食事が終わったらな」
「バザウ。俺は、肉が食べたい」
病人食を数匙ほど食べたところでデンゼンからの要望。
薄味の芋粥は狩人の舌には合わないらしい。
「胃に負担のかかるような喰い物は、療養中は避けた方が良いんじゃないか?」
「んー」
デンゼンは説明の言葉を探しているようだった。
木製の椀によそわれた粥を指さしていう。
「それは、俺の血肉にならない。食べるのは、肉! ちゃんと、獲物の肉、食べないと、俺の体、弱っていく」
「ふむ……」
デンゼンの真剣さを見る限り、単なる好き嫌いの問題というわけではなさそうだ。
バザウは粥の入った木製の椀をガタつく台の上に置いた。
「どうする、デンゼン? 村人が育てている家畜と交換してもらえそうなものはあるか? 後は……俺が狩りに出るという手段もある。肉が手に入るかは不確実だが」
「地下室。俺の食べ物、地下室に蓄えてある」
それはかつて、デンゼンがバザウの立ち入りを感じた場所だった。
「一番奥の棚に、ハチミツの壺、並んでる。俺の緊急食糧! 俺の非常食!」
「ククッ、それは笑える光景だ。お前は絵本に出てくるクマみたいだな」
「ん? そうなのか。俺、クマと同じか。壺には、獲物の心臓、つめてある。ハチミツは便利だ。漬けておくと、いつまでも、腐らない」
「……訂正する。お前は絵本のクマじゃなくて、獰猛な野生動物だ」
実に血生臭い食生活だが、狩りを生業としているデンゼンにはこういう食べ物の方が体に馴染むのだろう。
動物の肝には特別な薬効があるという話もバザウは聞いたことがある。
ゴブリンの感覚としても獣の内臓を食べることにはさほど嫌悪感はない。
「それじゃあ俺は、その滋養強壮に効く非常食を持ってくれば良いんだな?」
デンゼンは曖昧に頷いた。
「ん。でも、バザウを地下室に、入れたくない」
たどたどしく言葉を連ねる。
「地下室は、俺が色々作業して、すごく汚くて、散らかってるし。寒くて、暗くて。悪い空気が、いっぱい貯まってる」
「……中に入らなきゃ保存食を運び出せないだろう。動くと体の傷口が開く可能性があるから、今のお前がいくわけにもいくまい」
「ん。気をつけて、バザウ」
「何に対してだ?」
「汚れに。俺の、地下室は、汚いから」
地下室のドアを開ける。
重苦しい冷気がバザウの肌をなでた。
「……」
ゴブリンの目は、闇と親しい。
すぐに視界がきくようになる。
ドアから入ってすぐの辺りは、レンガや板が無造作に壁面に張りつけられている。
壁の補強か何かのつもりだろうか。粗雑な仕事ぶりはゴブリン並だ。
数歩ほども進めば、そこはもう自然の洞窟だ。
たまに洞窟の壁に小棚やフックが設置されている。
「! あいたっ……」
バザウの足裏に痛みが走る。
何か小さなものをうっかり踏みつけたようだ。
拾い上げてみれば小さな金属の輪っか。小さいながらも無骨で重みがある。
(なんだ……? 金具……?)
ずさんな工事だ。
横を見れば、小部屋がある。テーブルや戸棚などが置かれている。
(俺には、これがゴミなのか、大事なものなのかもわからんが……。とりあえず、目につきやすい場所に置いておくか)
小部屋に立ち入る。
部屋の中心にある大テーブルへ、バザウは金属の輪を置いた。
(ここには奇妙なものがたくさんあるな)
重々しい雰囲気の金属装置。
血と肉と脂肪の臭いが染みついている。
ハンドルがついている。これで内部で何かを回転させるようだ。
たくさんの穴が空いた丸い蓋が本体についている。穴一つのサイズは小さめだ。
テーブルの上には、変わった形の袋と箱も出しっぱなしになっていた。
袋には口金がつけられており中に何かを入れられる作りだ。
バザウの持つ知識では、それは食材を絞り出す道具に思えた。たとえばホイップクリームを絞り出すのに使う。
だがデンゼンが地下でホイップクリームたっぷりのケーキを作る姿は、まったく想像できない。
箱には蓋がなく、中身がさらされていた。
「……?」
箱の中は塩らしき粒で満たされていた。
塩に混ざって、水分を失いすっかり干からびたヒモ状のものが収められている。
正体はバザウの知識を総動員してもわからない。
(なかなか奇怪で気になるシロモノだが……。今はそれよりデンゼンの食事を用意しなくては。……アイツも腹を空かせて待っていることだろうしな)
地下室に入った本来の目的を思い出し、バザウはその場から離れた。
この時のバザウはしるよしもなかった。
それらの奇妙な道具が、ゴブリンを虜にする摩訶不思議な享楽の美味、ソーセージを作るための器具一式だと!
バザウが解明できなかったソーセージの神秘をデンゼンは熟知していた。
材料と道具さえあれば、デンゼンはソーセージを創造することさえ可能であったのだ。
デンゼンの地下室には、肉を細かく潰す器具が置かれてある。
ミンチ肉は絞り出し袋へと入れてソーセージの皮へと詰める。
皮として使われるのは動物の腸だ。デンゼンは動物の体から腸を抜き取り、よく中身を出してから、塩漬けで脱水保存している。
ソーセージ作りに使う時には水分を与えて戻す。
もしも部屋に製作途中のソーセージがあれば、バザウは色んなことに勘づいただろう。
だがこの時、作業室にはデンゼンの手作りソーセージが存在していなかった。
よってバザウがソーセージの真理にたどり着くのは、また少し遅れた。
「バザウ。平気だったか?」
心配そうな面持ちで、デンゼンはバザウを待っていた。
約束どおり大人しくしていたらしい。
「持ってきてやったぞ。これで良いのか」
洞窟の通路の最奥には棚があり、そこには大小様々の壺が並んでいた。
壺はかなりの数があった。いちいち全部の中身を確認するのも手間だ。
バザウは一番近くにあった壺を取り、デンゼンに確認させることにした。
「ん」
デンゼンはベッドの上でのそりと半身を起こし、ハチミツの入った壺を抱えこむ。
壺の中身を詳しくしらなければ、どことなく愉快で滑稽な絵面ではあった。
「これ、俺が最近、作っておいたやつだ」
だから一番手前にあったのか。
「む……。まだ食べるには早すぎたか?」
「構わない。食べられる」
そういうやいなや、デンゼンは壺に手を突っこんだ。
ベタベタとしたハチミツが、周囲に垂れようがお構いなしだ。
「……おい。汚すなよ」
「!」
瞬時にデンゼンが硬直した。
一切の表情はなくなり、右手がガタガタと震えている。
呼吸のリズムも不規則になっていく。
(ああ……、また……。ウカツだった……)
この一見屈強な青年は、心のどこかしこに大きな痛手を隠しこんでいる。
根本的な理由まではバザウにもわからないが、デンゼンは時々こうして恐怖の発作を起こす。
デンゼンは水を異様に恐れていて、清浄不浄への独特なこだわりを持っていて、強さこそがルールだと思いこんでいる。
多くの歪みを抱えた青年。
それでもバザウが戦士と認めた若者。
「落ち着け。お前を困らせる意図は少しもなかった」
パニック状態になったデンゼンにかける言葉を探すのは難しい。
バザウは、村中の誰よりもデンゼンと深い親交がある。
だからといって、彼の過去や人格全てを把握しているわけではない。
「俺ただ洗濯物が増えることについて……、ちょっとぼやいただけだ」
デンゼンは一つ大きな息を吐いてから、うなだれた。
まだ少し気持ちが乱れているようだが異常な緊張状態からは抜け出したようだ。
「……ん。あの、バザウ。ごめん。俺、すぐに、おかしく、なる」
「ああ。まったくもって、そのとおりだな」
少し突き放すようにいってみた。
「これからは滅多なことで動揺するな。……忘れるなよ。お前は俺が認めた戦士だ。胸をはって堂々としていろ」
ひととおりデンゼンの世話を終えてから、バザウは村の様子を見にいった。
村人は獣に破壊された家財の修復に忙しい。
ドワーフの一団は村人たちの作業に手を貸していた。
ゴマ塩頭の貧弱そうな壮年の男が、ドワーフから熱烈な指導を受けていた。
「ええぇい! 手際が悪いっ! レンガ積みってぇのは、こうやってやるんじゃーいっ!!」
彼らはたいてい口うるさく頑固なので、村人はありがた迷惑、といった顔をしていたが。
「ヌハハハハッ! 我ながら惚れ惚れする仕上がりじゃ!」
ドワーフの手による建築はやはり完成度が高い。機能性と芸術性を兼ね備えている。
ふと、ドワーフがバザウの視線に気づく。
そして……。
長く伸ばしたヒゲをふぁっしゃら~んとなびかせ、これ見よがしのしたり顔でバザウを見た!!
なんという腹立たしいドワーフであろうか。
だが、ここで罵りや皮肉を口に出せば、すぐそばにいる村人の耳にも入ってしまう。
村人はバザウの存在に気づいておらず別の方向をむいていた。
「……」
バザウはドワーフを睨みつけ、イーッと牙をむく。
「!」
ドワーフは顔にシワを寄せ、不愉快そうに舌を突き出す。
バザウは邪悪な笑みを浮かべながら、頭のこめかみに指を当て、くるくると回した。
「っ!!」
腕まくりをするドワーフ。恐ろしげな表情で力こぶを作り、もう片方の手で乱暴に叩いてみせる。
憤慨したドワーフが、さらに攻撃的なジェスチャーをしようとしたところで……。
「やあ。復旧作業の進展はどうだ?」
「あっ、バザウさまじゃないですか! こんちは!」
村人がくるっと振りむいた。
ドワーフは不自然な動作のまま、フリーズしている。
「あの……。何ふざけてるんです?」
「グ、グヌゥウウ……!!」
冷ややかな村人の視線がドワーフに突き刺さる。
バザウは腹から沸き起こる嘲笑をこらえた。
口元を隠し、村人の前ではヒスイの肌のバザウさまとして、神々しく穏やかな表情を取り繕う。
「おやおや? ドワーフというのはずいぶんと愉快な連中らしいな。……さて……。俺は村の様子を見て回る。何か異変があれば伝えてくれ」
「あいっ、わかりました。いってらっしゃいやせー」
村人の見送りとドワーフの地団駄を背にして、バザウは去っていった。
リコの屋敷の前で事切れた獣は、あの後、村の壁の外へと放り出されたそうだ。
バザウが獣の死骸を確認しにいくと、そこにはすでに二名のドワーフがいた。
「……」
どうしたものかとバザウがしばし静観していると、ドワーフの方から声をかけてきた。
特に敵意も親しみもない淡々とした口調。
「ほう。ヒスイの。何しにきよった?」
「……それはこちらのセリフだ。お前たちこそ、何をしている?」
「探しておるのよ」
ドワーフの一人が、木の枝で獣の腹をめくった。
とたんに強い異臭がたちこめる。
ドワーフたちはヒゲをかき寄せて、手早く自前の空気マスクを作って対応した。
ヒゲのないバザウは、片手で鼻をおおうしかない。
(もうこんなにも……、虫が死肉を喰い進んでいるのか……)
ハエの一族が、獣の死体に一大王国を建造していた。
デンゼンが獣の死体をどうしたかったのかは不明だが、この状態では肉も毛皮も利用することはできないだろう。残るとしたら骨ぐらいだ。
「あったか?」
「いや。見つからん」
「……さっきから、何を探しているんだ?」
バザウの問に、しばしの沈黙。
質問に答える気がないのかとバザウが思ったところで、ドワーフが重たい口を開く。
「遺品だ」
「獣に襲われた商隊連中のな」
村にくるはずだったドワーフの行商人に、なんらかの手出しをしたのはデンゼンだ。
バザウはそれをしっている。
しかしどういうわけか、精鋭ドワーフたちは人喰いの獣が商隊を殺害したものと認識しているらしい。
とても奇妙で大きな矛盾。
だが、バザウはあえてそのナゾを積極的に解こうとはしてこなかった。
そこから導き出される事実をずっとしらずにいたかったから。
「むう。何もないようだ」
「腹の中に、商隊の装飾品でも残っておればと思ったんじゃが……」
そうぼやいてヒゲをなでるドワーフの太い指には、光るものがあった。
それは指輪だった。
ドワーフの指輪。
小さく、重みがありそうで、輪っか状の、金属。
それはデンゼンの地下室でバザウが踏みつけたものに、非常によく似ていた。




