ゴブリンと遺伝子
魚からは魚が産まれる。
ウサギはウサギを産む。
ゴブリンの子供はゴブリンだ。
「そらはすべて、生き物に組みこまれた設計図のなす技さ」
子は親に似る。
親の特徴が子に伝わる。
「親から子へ性質が継承されるのは、君も感覚的にしっているだろう?」
バザウはうなづく。
「そのことをを遺伝と呼ぶ。遺伝を決定する因子、という概念に、仮の名がつけられた。それが遺伝子だよ。デオキシリボ核酸、DNAが遺伝子の実体だ」
生き物の設計図。
図に記された情報が遺伝子。
物質的な意味での設計図本体が、DNAということらしい。
「では生き物はなんのために生きるのか? 種の保存? 違うね。生き物はただ遺伝子を複製するために存在する」
コピーを増やすため、遺伝子はさまざまな戦略を練る。
一人は、親切な男になった。温かな家庭を持ち、子供たちに愛情をそそいだ。
それは確実な育成という戦略。
あの人が優しくふるまうのは、見返りが期待できるから。
一人は、乱暴な男になった。あちらこちらに子供を作った。その中には愛されないで産まれてきた子供も。
それは数に任せての繁殖という戦略。
あの人が自分勝手なのは、遺伝子のせい。
体力も知識も関係ない。
人格の良し悪しも無意味だ。
収入や家柄も地位も、遺伝子の前では等しく空虚。
大切なのは遺伝子を残すこと。
より効果的にコピーを増やす遺伝子が優位に立つ。
最後の一人は、廃人と化した。あらゆる喜びが欠如した灰色の日々。だって彼は、神が語った真理に絶望したから。
彼は、生存機械としての自分を受け入れられなかった。
そう。すべては遺伝子のために。
と、シア=ランソード=ジーノームは語りかける。
「……」
「遺伝子の世界に善意はない。一見献身的な利他行動の影には、利己的な意味が隠されている」
バザウは、湯ザルの生活を思い出した。
「しかし悲観することはないよ。善意がなければ、悪意もなくなる」
シアが耳元でささやく。
「生存機械におなりよ。生存機械に。遺伝子の忠実なシモベになるのさ。君を苦しませる、感情や他者との関係、社会的な立場。そういう一切合財から解放してあげよう」
「よく、わかりました」
バザウは継承の神の目を見据えた。
「なるほど。人生に迷った者、思いつめた者が……、あなたの言葉にすがりたがるわけだ」
シア=ランソード=ジーノームの真理は、弱った心に都合の良い支えと口実を与える。
「遺伝子……。興味深い内容でした。が……、それを生きる指針にするかは、別の問題だ」
「へえ?」
「遺伝子の繁栄と、その個体の幸福は一致しない」
極端な例。
のびのびと牧場で暮らす平凡なヒツジと、性質が優れているからと無理やり多数の子供を産まされるヒツジがいるとしよう。
遺伝子の繁栄という観点では後者の方が理想的だ。
だが、そんな生活を望むヒツジがいるだろうか?
「利己的な遺伝子と生存機械。生命の進化を理解する上での、画期的な思考だ。それは認める。だが……、とうてい真理とはいえない」
シアの周囲で浮遊していた緋色の楕円球が不穏に明滅し始めた。
「ゴブリンくん。僕には君の声がよく聞こえなかったよ」
「お前の言葉は考え方の一つで、絶対の真理ではない」
「設計図……、DNAの仕組みは、どの生物でも共通なんだ。だからね、ゴブリンくん。僕は、君のDNAにちょこっと細工して、ウサギくんやラットくんや大腸菌くんの体を構築しているたんぱく質を製造するようにすることだって、できるんだよ」
「その脅しで俺が意見を変えれば、お前は満足するのか?」
シアの緑眼がバザウにむけられる。
体の表面を突き抜けて、細胞一つ一つの活動や神経に流れる電気信号までも、見透かされるような視線だった。
見られているだけで、押しつぶされそうな威圧感に襲われる。
ふっと、その重圧が消える。
シアの周囲で浮遊していた球体からも、攻撃的な赤い光が消えていった。
「いや。力づくでいうことをきかせたところで、きっと僕の気分は晴れないままだね」
シアが手を一振りする。
テーブルの上に、どこからともなくずらりと並んだメロンソーダが出現した。
「このイライラは好物で静めるとするよ。君の細胞をどろぐちゃにして破裂させるのは取り止めだ」
ふてくされた顔でシアが細長いスプーンをくわえる。
「しかし君は命が惜しくないのかい? 神の言葉を目の前で否定するなんてさ。君はたしかに賢いよ。ちゃんと自分の頭で考えてる。だけど、ちょっと不器用で危なっかしい。ウソをついてごまかしちゃった方が、無難に済むこともあるんだからね。肝に銘じておくことだ」
「ご忠告、感謝する」
「ねえ。君って何者なんだい? 僕に教えてくれないかな? 平均的なゴブリンの基準からは大きくはずれている。ずいぶんな変わり種だ。君自身、そうは思わないかい?」
バザウを試すようにシアが問う。
質問の内容を本当にしりたいといった話し方ではなくて、バザウがどう回答するかどんな反応を示すかに興味があるようだ。
「いかなる力が、君にその人格と意思と思考力を授けたのだろうね? 大いなる遺伝子の賜物か。はたまた他の要因か」
古の荒ぶる神からの問いかけに、驚異の英知を持つこの奇特なゴブリンはいたって凡愚な返事をした。
「わからないな」
そうとしか答えようがない。わからないものはバザウにだってわからないのだ。
ただ、それを探してバザウは旅をしているのかもしれない。
「あーぁ、それにしても残念だ。初のゴブリン信奉者がゲットできるかと思ったのに」
冗談めかしてシアがいう。
ごく軽い口調からして、シアは本気で信者獲得にいそしんでいるわけではないようだ。
「それなら、教えを説くまでもない。崇高な理論などなくても、まっとうなゴブリンは優秀な生存機械だ」
侮蔑ではない。
ほんの少しの憧れをふくめて、バザウがつぶやく。
脳裏には自然とさまざまなゴブリンたちの顔が浮かぶ。
「なるほど。君は落ちこぼれのゴブリンってことか」
「そうともいえるな」
「君の存在は、僕の好奇心をくすぐるね。もし君が名前を名乗れば、僕は意識の片隅ぐらいでその名を覚えておくかもしれないよ」
どこかほほ笑ましさを誘う尊大さでシアがいう。
「バザウ」
ハドリアルの森のバザウ。
震撼を呼ぶヘスメの十二番目の息子。
仲間たちに上手く溶けこめず、バザウは故郷を旅立つことを決めた。
周りになじめない。
自分の居場所がない。
だから、探しにいく。
「じゃあな」
「おや。もういってしまうのかい? そんなにせかせかして、いったい君はどこにいこうっていうのさ?」
太古の神と違い、ゴブリンの時間は有限なのだ。




