第189話 なくなる迷い
翌日。
初春の陽光が降り注ぐ昼下がり。
庭の空気はまだ少しだけ冷たく、それでも日差しの当たる場所には、確かに春の匂いが混じっていた。
湿った土の匂い、芽吹いた若葉の青さ、遠くで咲き始めた花の気配。
アメリアはホワイトタイガーのユキと並んで、小径をゆっくり歩いていた。
エドモンド公爵家の屋敷で家族になったユキは、相変わらず大きい。
けれどその足取りはふわりと静かで、白い毛並みが光を受けて淡く輝くたび、まるで雪の塊が滑るようにも見える。
「ユキ、今日は機嫌がいいのね」
そう声をかけると、わふっと鼻を鳴らし、わざとらしく首をそらした。
けれど、尻尾の先だけがほんの少し揺れている。
アメリアは思わず笑ってしまう。
「ふふ、素直じゃないわね」
ユキは基本的に感情をストレートに表現するが、時たまこうしてそっけない態度を発揮する。
指先でそっと首元の毛を撫でると、ユキは一歩だけ横にずれて距離を取った。
拒絶かと思いきや、すぐにまた同じ歩幅で並び直す。
そして気がつくと、アメリアのお腹にすりすりと顔を擦り付けてきた。
(こういう時間が、今の私には必要なのかもしれないわね……)
考えないようにしても、昨日の会話は胸の奥に残っている。
ローガンの「寂しい」という言葉。
それを思い出すだけで、心臓のあたりがきゅっとなる。
アメリアは思わず歩調を緩め、空を見上げた。
青い。どこまでも、透き通るように。
そして広大だ。
ぼんやり眺めていると、自分の悩みがちっぽけに感じてくる。
そのままずっと眺めて現実逃避をしたい気持ちだったが、ユキに「がうっ」と急かされて、アメリアは散歩を続けた。
そうしてユキと歩いていると、視界の端にふと動く影が映った。
屋敷の裏手。小さな湖のほとり。
誰かが剣を振っている。
乾いた風切り音が、一定のリズムで空気を割っていた。
「……え?」
アメリアは足を止めた。
見間違いではない。剣筋が美しい。迷いがなく、無駄がない。
そして、その人影は――。
「シャロル様……?」
ローガンの祖母、シャロルだった。
以前、実家でアメリアを虐げていた侍女メリサが襲来した時ぶりである。
以前は肩を悪くしていたはずの老女が、湖面のきらめきを背に若者のように機敏に剣を操っている。
踏み込みの速さ、体の捻り、刃の返し。
どれを取っても素人の域ではない。
アメリアは思わず息を呑んだ。
(すごい……)
蜜に釣られる蜂のように、アメリアはユキと一緒に湖畔へ向かった。
近づくにつれ、剣を振るう音の合間にシャロルの呼吸が聞こえる。
浅くない。乱れていない。鍛錬を愉しむ者の呼吸だった。
そして、最後の一太刀を振り抜き、シャロルがすっと剣先を下ろした。
汗を拭いながら振り向き、アメリアを見つけると、皺の刻まれた顔がぱっと明るくなる。
「おお、アメリアか。散歩かい?」
「はい。ユキとのんびり歩いてました」
アメリアがそう言うと、ユキは一歩前に出てシャロルをじっと見上げた。
シャロルは愉快そうに笑い、ユキの額を軽く指でつついた。
「なんじゃ、やけに偉そうな顔しとるのう」
ユキはむっとしたように鼻を鳴らしたが、退かない。
シャロルの方も、怯む様子がない。
若い頃は、かつての大戦で軍神とも呼ばれたほど、シャロルは優秀な剣士だったらしい。
その貫禄は老いた今であっても健在であった。
「こやつ、相変わらず立派じゃな。ローガンの若い頃より貫禄があるわい」
「それは、褒めているんでしょうか」
アメリアが苦笑すると、シャロルは「もちろんじゃ」と即答した。
「シャロルさんの剣捌き、初めて見ましたが物凄いですね……」
「見ての通りじゃ。肩も、腕も、こんなに動く。もっとも、若い頃に比べると落ちてはいるがのう」
くははっと笑いながら、シャロルは肩をぐるりと回してみせた。
その動きに、ぎこちなさは一切ない。
「アメリアの薬のおかげで、またこうして剣を振るえるようになったんじゃよ」
まっすぐな声だった。飾りも誇張もない。
アメリアは胸の奥がじん、と熱くなるのを感じた。
「本当に、ありがとう。アメリアのおかげじゃ」
その言葉を受けた瞬間、アメリアの胸の中に温度が灯った。
自分の薬が、シャロルの肩を治した。
それだけでない、シャロルはまた「好きなこと」をできるようになった。
その事実に、アメリアは唇をきゅっと噛みしめた。
「そんな。私は、ただ……できることをしただけです」
「ただ、なんてものじゃないな。老い先短い老いぼれの楽しみを取り返してくれた。ありがたいことじゃ」
シャロルは言い切った。
その目は穏やかなのに、芯がある。
照れ臭くなって、アメリアは反射的に視線を逸らしかけた。
しかしそれを逃さず、シャロルは急に話題を変えるように言う。
「……で?」
短い一言。
次の瞬間、シャロルの目が、まるで剣の切っ先のように鋭くなる。
「何にそんなに悩んどるんじゃ」
「……ふぇっ!?」
アメリアの肩がびくりと揺れた。
見抜かれている。
昨日から、ずっと。
自分の中でぐるぐると回っていたものを。
「な、なんのことでしょうか……?」
反射的に誤魔化そうとする。
けれど、シャロルは笑いながら首を横に振った。
「下手じゃなぁ。お主は顔に出過ぎるのじゃ」
「うぅ……」
「ほれほれ、話してみ。肩を治してくれた礼じゃ」
アメリアは観念して、小さく息を吐いた。
「……わかりました」
それから二人、湖畔のそばにある木製の長椅子に腰掛けた。
アメリアはぽつりぽつりと話し始める。
大学から研究員の誘いがあったこと。
責任の重さが怖いこと。
屋敷を空けることで、迷惑をかけるのではないかと不安なこと。
話せば話すほど、自分の迷いが言葉になって輪郭を持ち、それが恥ずかしくもあり、少しだけ楽でもあった。
シャロルは、途中で一度も口を挟まない。
ただ湖面を眺めながら静かに聞いていた。
そして、アメリアが言葉を止めたところで、ふう、と息をつく。
「なるほどのう。まさかアメリアが、これほどまでに聡明だったとはねえ」
感嘆しながらシャロルは言う。
「カイド大学といえば、私が若かりし頃からの名門じゃ。王国中の秀才が集まるところでのう。入学することすら難しいのに……研究者の立場でオファーが来るなんて、びっくり仰天もいいところじゃ」
シャロルは感嘆するように息を吐いた。
「じゃが、それ故にかかる責任は大きいだろうしのう」
「そうなんですよね……」
沈黙が落ちる。
風が吹き、湖の水面に小さなさざ波が立った。
ユキがアメリアの足元に頭を擦りつけてくる。
まるで「大丈夫?」と言ってくれるみたいで、アメリアの頬が少し緩む。
「アメリア。ローガンはな、無限の可能性を持つあんたを、自分の都合で縛りたいとは思わん」
湖の方を見ながら言うその声は、穏やかで、確信に満ちていた。
「アメリアが広い世界に出て、新しいものを見つけてくれる方が、きっと嬉しい。あいつはそういう男じゃ」
アメリアは、胸の奥がじん、と熱くなるのを感じた。
(ローガン様は……いつも、そうだ……)
不器用なくせに、優しさだけは真っ直ぐで。
自分を守ろうとするのに、未来を閉じ込めようとはしない。
「それは、わかってるんですけど……」
「まあ、迷っている理由はそれだけじゃないじゃろうな」
「え……?」
アメリアが目を丸くすると、シャロルはにやりと笑う。
「ローガンと離れるのが、寂しいんじゃろ?」
「っ――!」
胸の奥を、まっすぐに刺された気がした。
アメリアの目が見開かれ、言葉が喉で止まる。
「いやっ……それはっ……」
「違うのか?」
違わない。
だって、それは本当だから。
ローガンがラスハルへ赴任しようとしていた時。
あの時と同じ。
ローガンの背中を押したい。彼の立場を考えると、行かないでと言いたくない。
けれど、一緒にいる時間が減るのが、どうしようもなく寂しい。
その感覚と同じものを、今の自分は抱いている。
アメリアは、指先をぎゅっと握り締めた。
シャロルはそんなアメリアを見て、笑みを消し真面目な声で言う。
「離れる時間があるからこそ、会えた時の嬉しさが大きくなって、前より絆が深くなることもある。想いまで離れず、むしろ膨らんでいくものじゃ」
「むしろ、膨らむ……」
「そうじゃ」
力強くシャロルは頷いた。
戦争という混乱の時代を生き抜いたシャロルから出てくる言葉は、やけに説得力があった。
そんな事を思っているアメリアの一方で、シャロルはふっと表情を柔らかくし、今度は少しだけ茶目っ気を混ぜながら言った。
「それにの」
そして、肩をすくめるように笑う。
「少なくともわしは、アメリアのおかげで退屈な余生が楽しくなった。この気持ちを抱ける人がこの先もたくさん生まれると思うと、わくわくするぞ」
アメリアは、思わず息を呑んだ。
その言葉は、重かった。
「生き返った」でも、「治った」でもなく。
「楽しくなった」
生きることに、色が戻ったという意味。
アメリアの胸の中で、昨日から絡まっていた迷いが、ほどけていくのがわかった。
自分の薬が、役に立つ場所がある。
自分がここに留まっていることだけが、誰かを支える形じゃない。
むしろ――。
(私が外へ出て、学んで、もっとたくさんの薬を作れるようになったら……)
多くの人が救える。
シャロルと同じように、人生を楽しく過ごせる人が増える。
アメリアはゆっくりと顔を上げ、シャロルを見つめた。
シャロルはにこりと笑って、剣の柄に手を置いて言った。
「やっぱり、アメリアは顔に出やすいのう」
アメリアは、思わず目を伏せた。
頬が少しだけ熱い。
けれど、それは恥ずかしさではなく、決意が形になった熱だった。
ユキが「がう」と鳴き、アメリアの手の甲に鼻先を押しつけた。
アメリアは小さく笑って、シャロルに頭を下げながら言った。
「ありがとうございました、シャロルさん」
「どういたしましてじゃ」
ニコッと笑うシャロルを前に、胸の奥で決意の炎が灯る。
春の光が、湖面でゆらめいていた。




