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第171話 必ず、帰ってきてくださいね

 それは、屋敷に戻って数日後のことだった。クリフの別邸から帰ってきてからと言うもの、アメリアは穏やかな日々を過ごしていた。


 庭園の手入れをしたり、書物に目を通したり、ウィリアムと共に新薬について議論したりと、充実した時間が流れていた。


 ホワイトタイガーのユキもすっかり屋敷での生活に慣れ、時には自由奔放に、時にはアメリアに寄り添うように過ごしていた。


 ある日のこと。


(今日は新書の入荷日♪)


 書庫に新しい本が入荷したとの事で、アメリアはるんるんと廊下を歩いていた。

 へルンベルク家の書庫には、定期的に植物に関する新刊が入荷されている。


 今日はその日ということで、アメリアのテンションは鰻登りであった。

 歩いている途中、前方から重たそうに本を抱えたライラの姿が目に入った。


 彼女は精一杯の力で本を抱えているが、その小柄な体には本たちは重すぎるように見えた。


「あ、おはようございます、アメリア様」

「おはよう、ライラ。その本って……」

「はい! 今日入荷の本ですね」

「ちょっとフライングしちゃったかも……」


 どうやら楽しみすぎて、入荷が完了するより前に書庫へ向かっていたようだ。


「今回は冊数が多いのね!」

「あ、いえ。ローガン様に届ける本もいくつかありますね」

「ローガン様に?」


 ふと思い至って、アメリアはライラに提案する。


「ライラ、そんなに持っていたら重いでしょう? 何冊か持つわ」

「ええ! そんな、悪いです……」

「良いから良いから。私がローガン様の部屋に本を届けるから、ライラは書庫への本をお願い」

「うう……ありがとうございます……では、お言葉に甘えて……」


 こうしてアメリアはライラから、ローガンの部屋に届ける何冊か本を受け取る。

 そして、ライラから受け取った重厚な本のタイトルに目を通した。


 瞬間、アメリアの背筋に冷たいものが走る。


『防衛計画の構築と分析』『戦局を左右する戦術と兵法』『防衛の新視点』


 それは以前、クリフの別邸で見た本の系統と、全く同じタイトルたちだった。


◇◇◇


「失礼します」


 アメリアは、静かにローガンの部屋に入った。


 ローガンが執務机で書類を纏めていたが、アメリアの持つ重厚な本に気がづくと、ギョッとしたような表情を浮かべた。


「アメリア、それは……」

「ライラから貰ったんです。とても重そうだったので、お手伝いできればと思って」

「……そうか」

「机の上で良いですか?」

「ああ、ありがとう」


 ローガンは若干居心地悪げな表情で、アメリアが本を机に置くのを見守った。

 置き終わった後……アメリアは意を決してローガンに尋ねた。


「この本は……領地防衛のための、勉強ですか?」


 クリフの別邸でこの手の本を目にしてから、ずっと胸に抱えていた違和感を口にした。

 そうだ、領地防衛のために購入したものだ、みたいな返答を期待しながら。


「…………」


 アメリアの意に反して、ローガンは押し黙った。

 少し口を開きかけては、言葉に詰まるように視線を逸らす。


 言うべきか、言わざるべきかと葛藤している様子が、ローガンの表情から読み取れた。

 この質問がローガンにとって答えづらいものだと、流石のアメリアでもわかった。


「もうそろそろ、話すべきか……」

 ローガンはそう言って、ゆっくりと深く息をつく。


 そして決意を固めたようにアメリアへと向き直り、ソファに手を差し伸べた。

 ローガンに促され、アメリアはソファに腰を下ろす。


 隣に座ったローガンの話を、アメリアは静かに待った。しかしその胸中は穏やかではない。

 ローガンの横顔に緊張が帯びているのを感じ取る。


 これから何か、これまでの穏やかな日々を決定的に変えてしまうかのような話がされるのではという気配があった。少しの間、ローガンは言葉をためらっていたが、やがて深く息をつき、アメリアに視線を向けて口を開いた。


 それからローガンは、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。


「最近、俺が軍事の知識を集中的に学んでいるのは……ラスハル自治区に赴くことになるかもしれないからだ」

「ラスハル自治区……」


 アメリアがその名を反芻する。

 ラスハル自治区──以前、紅死病の新薬を開発する際に耳にした地域の名だ。


 宗教対立が起こっていて、過酷な激しい戦いが繰り広げられている場所だと聞いている。


「そのような場所に、なぜ……?」


 恐る恐る口を開き、ローガンに問いかける。

 ローガンはすでに覚悟を固めたような表情で答えた。


「兄であるクロードに、参謀として参加しないかと打診を受けた」


 クロードとは、以前一度だけ言葉を交わしたくらいの関係だ。

 ローガンの言葉に、アメリアは静かに耳を傾ける。


「話を持ちかけられた当初は、その打診を断った。アメリアと婚約したばかりなのもあったし、わざわざ自分の身を危険に晒す必要もないからな。だが……」


 アメリアの顔をまっすぐ見て、ローガンは真剣な表情で続ける。


「アメリアの植物に関する天才的な素養が明るみになってからは、少し考えが変わった。アメリアは今後、アカデミーの分野で……いや、国全体で活躍する存在になる。その時、必ずアメリアのことをよく思わない輩が出てくる。そういった者たちを少しでも寄せ付けないためには、家の影響力をもっと大きくしないといけないと思った」


 そこで、と前置きしてローガンは言う。


「俺がラスハルで戦果を上げ、知略の分野でも実績を積むことが出来れば、ヘルンベルク家の立場は大きく上昇する。そうすれば、アメリアの身の安全はより一層、保証されるだろう」


 ローガンが一息で言った言葉を、アメリアは必死で頭を働かせて噛み砕く。


「……ええと、ようするに、ローガン様は私の後ろ盾になるための行動をしていた……ということですか?」

「ああ、そうだ……話すのが遅くなってすまない」


 静かに、ローガンはアメリアに頭を下げた。


 ──もし俺が遠くに行くと言っても、アメリアは許してくれるか?


(あの時の言葉は、このことだったのね……)


 先日、クリフの領地からの帰路の船の上で、ローガンが口にした言葉をアメリアは思い出す。

 一連の話を聞いて、アメリアは胸の奥に言いようのない感情が湧き上がるのを感じていた。


 まだ話の全容を受け止めきれてはいない。

 少なくとも、ローガンが自分のためにそこまで考え、行動しようとしてくれていること自体は嬉しい。


 しかし、紛争地へ参謀として赴くという危険なことをしてほしくない、という思いもあった。

 ローガンがこのような危険な道に進む理由が、自分のためだと考えると、どうしても胸の奥に引っかかるような痛みが生まれる。


 もしローガンの身に何かあったら――そんな不安が次々と胸を押し上げてくる。

 どくどくと胸が音を立てて、眩暈がしそうになるほどだった。


 一方でローガンの葛藤や迷い、そして決意も痛いほど伝わってきた。

 思慮深いローガンが考えに考え抜いて出したであろう結論に、自分のわがままを介入させるような勇気は、アメリアにはなかった。


「……頭を上げてください、ローガン様」


 ローガンに視線を合わせて、


「私のために、お力になりたいというお気持ちは……本当にありがたいです。むしろ今まで、そのような心労を負わせてしまっていたのを、気付けずに申し訳ございません……」


 本当はうっすら気づいていたのに、踏み込むことをしなかった。


 感情的な対立をなるべく避けたいという己の弱さがそうさせていた。

 その負い目もあったし、自分とは違う、多くのものを背負っている領主という立場も考慮してか。


「私は、ローガン様の選択を尊重いたします」


 アメリアは、ローガンの意志について、何も言わないことを選択した。


「……すまない」


 一連の話の上で、全てを肯定する返答を口にしたアメリアに、ローガンは言葉を溢す。

 それからアメリアの肩に手を添え、優しく抱き寄せた。


 ローガンの胸の中で、自分のものではない鼓動を聞きながら、アメリアは唇を震わせる。


「ただ、もし……危険な地に赴くことになっても……」


 ぎゅっと、アメリアはローガンの胸に縋り付くようにして、ほんの少しだけ要望を言葉にする。


「必ず帰ってきてくださいね」

「……ああ、約束する」


 今度は固く、ローガンはアメリアを抱き締めた。


 ──きっとローガンは、ラスハルへ行く。


 彼の性格を考えると、そんな気がひしひしとしていた。


 やるせない気持ちが押し寄せ、心がざわめく。


『行ってほしくない』


 という切実な本心が胸底で燻りながらも、アメリアはその気持ちに蓋をするのだった。


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