第154話 何も覚えていない
ぼんやりとした頭で、アメリアはゆっくりと目を開けた。
薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、部屋全体を優しく包み込んでいる。
高い天井、豪華な装飾が施された寝室の静寂の中に、時折小鳥の鳴き声が耳に届いた。
いつも目覚める、へルンベルク家の部屋のものではない天井から、自分がクリフ公爵の別邸に遊びにきていることを思い出す。
その延長でふと、ここではない、別の場所の光景が頭に蘇ってきた。
(懐かしい夢を見たわ……)
そう、あれは自分のデビュタントのときの記憶だ。
王城のホールの隅っこで一人、必死に存在感を押し殺していた。
華やかなに着飾った令嬢たちとは対照的に、ボロボロのドレスで参加させられたデビュタントの記憶は、今も瞼の裏に残っている。
その中でふと、自分以外の存在を思い出した。ぼんやりと靄がかかったシルエット。
ひとりぽつんとホールにいた自分に声をかけてくれた。
けれど、彼の名前や顔だけが不思議と霞んで思い出せない。
思い出すほどにその記憶は指の間をすり抜けていくようだった。
(……なんだか……覚えがあるような……)
針の穴に糸が通りそうで通らないような感覚。
その男の存在が胸の奥で何か温かいものを残している気がする。
しかし所詮は夢の話だと、じきに興味は薄れた。
アメリアは上体を起こし、背筋を伸ばして大きく伸びをして……。
「ううっ……」
鋭い痛みが頭を襲い、思わずこめかみを押さえた。
「いたたたた……なにこれ……頭が割れる……」
まるで槌で叩かれるようなずきずきとした痛みに顔を歪めながら小さく呻く。
「大丈夫か?」
不意に聞こえた低い声に、アメリアは顔を上げた。
すると、寝室のソファに腰かけ、本を膝に乗せたローガンの姿が目に入った。
「ローガン様、おはようございます。すみません、なんだか頭が重くて……」
「典型的な二日酔いの症状だな。無理もない」
「二日酔い……」
聞きなれない言葉を反芻していると、ローガンが手に持っていた本を閉じた。
「何を読んでいたのですか?」
「ああ……」
ローガンは一瞬、視線を泳がせた後、さっと本を裏返して隠す。
その仕草にアメリアは小さな疑念を抱いたが、それを口にする前に、ローガンの目元の異様さに気づいた。
「ロ、ローガン様……!? 目がすごいことになってますよ……!」
よく見ると、その瞳の下には深いクマができており、いつも端正な顔立ちが少しやつれて見える。
「……ああ、ちょっとな」
「もしかして、寝てないんですか?」
尋ねると、ローガンはさっと口元を手で隠して言う。
「……昨晩のあれで、寝られるわけがないだろう」
「昨晩……?」
アメリアは首を傾げながら、昨夜の記憶を辿ろうとした。
豪華なテラスでの夕食、美味しい料理、祝杯をあげたこと――そこまでは覚えている。
しかし、それ以降の記憶が曖昧だ。
「やはり、覚えてないか」
ローガンは小さく息をつき、額に手を当てながら言った。
その時、寝室のドアが静かに開き、カートを押したシルフィが入ってきた。
「おはようございます、アメリア様」
「おはよう、シルフィ。ねえシルフィ、昨日の夜、何があったの? 私、覚えていなくて」
朝食のカートを押す手をシルフィはぴたりと止める。
それから考え込むような素振りを見せた後、にこやかな笑顔で言った。
「昨晩はお酒に酔われたアメリア様を、ローガン様が寝室までお運びになったのですよ」
「ええっ……!?」
全く身に覚えのない事実に、アメリアの背筋がぶわりと冷たくなる。
瞬時に顔を赤らめて、アメリアは慌ててベッドの上で膝をついた。
「私……そんなご迷惑を……! ああ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
頭を深く下げ、何度も謝罪を繰り返す。
その姿にローガンは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「気にするな。君がお酒に弱かったのを失念していた、俺の責任でもある」
「失念……?」
その言葉の意味を噛み砕いて、不思議に思う。
昨日の時点で失念していたということは、以前からアメリアのお酒の弱さを把握していたということだ。
「私、ローガン様の前でお酒を飲んだことなんてありましたっけ……?」
アメリアの問いに、ローガンは目を見開く。
「やはり、覚えていないんだな」
「へ……?」
「いや、いいんだ。酔うと記憶を飛ばしてしまうタイプには、こういうことがある」
ローガンの言葉の意図を理解することが出来ず、アメリアはただぱちぱちと目を瞬かせるのだった。




