過失致死
ここはグラウス共和国、どこかの裏路地。
正義に燃えるエリナは、今日も血眼になって悪人を探していた。
「や、止めてください!」
「ふへ、へへへへへへっ!」
空き家の間に挟まれた、小さな路地。その中で隠れるように言い争っていたのは、二人の男女だった。
やや肌は汚れているが、顔立ちは整った女性。それと上半身裸で、筋肉の発達した男。
壁に押し付けられた女性。男は彼女に顔を近づけ、荒い息をしている。彼の両手は女性の衣服に潜り込み、粘土をこねるかのようにあちこちを弄っている。
(あの人、何してるんだろ?)
エリナは男が悪人であるということは理解していたが、具体的にどんな悪事をやっているかは知らない。
胸やお尻を触ったからなんだと言うのだ? お風呂で自分の体を触っても嬉しくもない。なのにあの男はなんであんなに嬉しそうにしているのだろうか? そして女性はなぜ泣いているのか?
エリナは知らない。すべてを知らない。どうやったら子供が生まれるかも知らないし、これからこの女性がどんなひどい目に合うか、男の下半身がどうなってるかなんて全く知らない。
でもみんなが悪いことだと言ってるから悪だ。
その程度の認識である。
「待たれよっ! そこの悪人っ!」
エリナは悪人を指さしながら、決めポーズをとった。
「天が愛した正義の使徒。共和国第七軍将軍、西崎エリナ! ここに参上っ! とうっ!」
段差を飛び越え、エリナは悪人へと駆け出した。
男は、そして被害にあっていた女も、突然現れた彼女のせいで体が固まっている。
「だ、誰だお前はっ!」
男はエリナの剣を見て、すぐさま臨戦態勢を取ろうとした。しかし狭い路地の中で女性と二人で密着していた彼は思うように動けず、初動が遅れてしまう。
その隙を、エリナが見逃すはずがなかった。
「ジャスティイイイイイイッス!」
エリナは聖剣の柄で男の首筋を殴打した。相手を気絶させる、その程度の威力を込めた一撃だ。
「大丈夫かっ!」
「…………う、うう……」
襲われていた女性は、口元を押さえながら足早に去っていった。エリナに声をかけてくれることはない。
感謝の言葉がもらえればうれしいとは思っていたが、まあ、こういうことはままある。
エリナは別に感謝の言葉を要求しているわけではない。女の人が無事であればそれでいいのだ。彼女にとっても男がいるこの場所に長居するのは好ましくないだろうから、別段呼び止めることはしない。
さて、とエリナは剣を腰元に収めた。
「ふふん、では悪人よ! 裁きの時だ!」
これから、近衛隊にこの男を引き渡す。そこまでがエリナの仕事だ。男の胸を靴で踏みつけながら、反応を待つ。
「え……」
そして、エリナは気がついた。
男が……死んでいた。
頭の打ちどころが悪かったのか、それともショックで心臓発作を起こしたのかは知らないが、エリナの一撃を食らった男は死んでいた。見開いた目は白目で、口からだらしなく舌と涎を出している。
「お、おい……」
エリナは男の頬を叩いた。しかしどれだけ強く叩いても、どれだけ強く揺さぶっても、男が目を覚ますことはなかった。
脈はない。
息もない。
心臓も動いていない。
誰がどうみても、間違いなく死んでいた。
「あ……」
エリナは、声を震わせた。
「あ……あたし」
殺すつもりはなかった。女性に暴力を振るっていたことは犯罪だが、彼は人を殺したわけではないし、なにより未遂なのだ。とてもではないが、死刑にするべきほどの罪をもっているわけではない。
「……なんで」
エリナは多くの魔物を殺し、時には抵抗する山賊を切り殺してきた。だがそれはあくまでこちらに襲い掛かってきた場合であり、自ら積極的に殺していたわけではない。
「うええええええええええええええん! おとーさん! おとーさん!」
呆然とするエリナの耳に、耳障りな子供の声が聞こえていた。
小さな男の子が、男の死体に駆け寄って泣いていた。最初は一人だったが、二人目、三人目も駆け寄ってくる。
エリナは驚いてその男の子たちを見た。髪の濃度や鼻筋が、どことなく死んでしまった男に似ている。
おそらく、あの男の子供なのだろう。
エリナはどうしていいか分からなかった。事故だったとは言え、この男を殺してしまったのだ。どう謝ったとしても、この子供たちの心には深い傷が残ったまま。
ぼんやりとそんなことを考えていると、頬に痛みを覚えた。
石だ。
握りこぶしの半分程度の大きさを持つ石。涙で顔をくしゃくしゃにした子供たちが、エリナに石を投げつけたのだ。
「人殺しっ!」
その言葉に、エリナは心を抉られるような気持だった。
ヒトゴロシ。
それは、もっとも単純にして原始的な犯罪者。多くの国や宗教で罪人とされる、人がやってはならない過ち。
「そんな……あたしは、そんなつもりは……」
「おとーさんを返せ! 返せ! 返せ返せ返せっ!」
相手は子供だ。聖剣を使えば簡単に撃退することができる。
だがそんなことはできない。エリナは正義の味方なのだ。弱者である子供を傷つけることなど……できない。
結局、エリナは縮こまって投石を受け入れることしかできなかった。
(……こんなつもりじゃなかった。だって、あたし、殺すつもりなんて。女の人を助けるつもりで……。なのに、なんで、どうしてこんな……)
子供が泣き叫んでいる。
石が頭にあたり、軽いめまいを覚えた。
エリナは泣きたかった。これまでずっと気丈な心でその涙をこらえてきたが……もう、限界だ。
耐えられない。
「う……あ…………ああっ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
エリナは泣いた。
過ちを犯した。決して消えることのない、罪。
エリナの手は血に濡れてしまったのだ。
もう、正義の味方だったころには戻れない。
自らのアイデンティティーが崩壊し、エリナは子供ように泣き叫ぶことしかできなかった。




