悪魔王の提案
首都東、戦場の小さな森の中にて。
乱入者――草壁小鳥が去ったことにより、この場は再び俺たちと魔族の戦地となった。
目下最大の目標はこいつ――悪魔王イグナートを倒すこと。そして、未だ黒死の幻影に苦しんでいるエリナを救うこと。
俺は警戒を強めながら、イグナートに剣を向けた。彼は血の滴り落ちる右肩を左手で押さえながら、やや苦しそうに息を吐いている。
「お前の魔法、黒死の幻影は対象に悪夢を見せる魔法。そうだな?」
「……然り」
「エリナを元に戻せ。お前の魔法で、変な夢を見せられてるんだろ? 俺にみたいに」
「……その小娘は我が魔法に囚われておってのう。助けたくば、その黒い魔法陣に触れるがよい」
突如、エリナが横たわる地面に黒い魔法陣が出現した。
「触れる? 俺が触れるとどうなる?」
「小娘を苛む悪夢の世界に入れる。助ければ、忌まわしき魔法は解かれるはずじゃ」
は?
俺が夢の世界に行って、エリナを助けてこいってことか?
「エリナと同じ状態になってどうする? 無防備なところを攻撃されたら、それこそ二人とも終わりだ。ここでお前を倒した方が確実……」
「わしが死んでもその魔法は解けぬ。かといってお前の力では魔法は壊せぬじゃろうて。これが最善手じゃ」
「…………」
俺は冷静になって考えてみる。
確かに、こいつの言うことは正しいかもしれない。
俺は魔法を壊したことなんてない。聖剣で攻撃すればエリナが傷つくし、魔法陣を殴りつければこいつの言うように『触れた』ことになって、悪夢の世界に引きずりこまれるのだろう。
そして、例の死んだ魔王の魔法陣だって空に残ったままだった。死後も魔法の残る場合がある。敵を倒せばすべてが終わる、なんていうのはご都合主義もいいところだ。
……というかそもそも、俺にこいつが倒せるのか? 逆に殺されてしまう、なんて危険もあるわけで。
思えば、こいつはいつでも俺のことを殺せた。
究極光滅魔法を使えば、俺は何の手立てもなく殺されていた。
魔族たちが一斉に空から攻撃していれば、この戦は人間側の大敗北だった。
そもそも黒死の幻影は相手に悪夢を見せる魔法だ。今のエリナみたいに無防備な状態なら、魔法や武器を使わなくったって殺すことができる。
「お前は……俺たちを、殺せないのか?」
「かかかっ、おかしなことを言う。わしが、お前を殺さぬと?」
「いつでも殺す機会はあったはずだ。お前は何を考えている? 何のためにここにいる?」
「さてのう。すべては我らが獅子帝、魔王陛下のため。人間の苦しむ姿こそ、わしの喜び。わしはそれをただここで眺めておるだけじゃ。お前たちが悪夢に囚われているその間、体を傷つけぬことは約束しようぞ」
約束。
戦場で約束なんて馬鹿な話だと思う。ましてや圧倒的に有利な状況下で殺さないとか傷つけないなんて……。
だがこいつの命令で魔族たちは翼を使わなかった。例の大量虐殺魔法だって使われなかった。
信用できる、というのは言い過ぎだがなんとなく不思議な意図を感じる。俺たちを殺すため罠を張ってる、なんてことは絶対にないはずだ。
小鳥は俺の魔法を解いた。でも俺が同じことをするのは不可能だ。
エリナがずっとこのままだったらどうする? 同郷のクラスメイトが一人欠けるだなんて、考えたくもない。
だったら、こいつの提案に乗ってもいいんじゃないのか?
それに、こいつは俺たちの苦しむ姿を眺めていると言った。つまり、その間はずっとこの隔絶空間にいるということだ。
外の戦場は人類が優勢。時間稼ぎができれば、おそらくグラウス共和国軍の圧勝で終るだろう。逆に変にちょっかいを出して外の魔族たちとこいつが合流でもしたら、俺たちは敗北してしまう。
これは賭けだ。
「お前の提案に、乗ろう。俺はエリナを助けたい」
「……人間よ、その勇気を讃えよう」
イグナートが頷いた。
俺は視線をイグナートからそらし、隣で倒れこんでいるエリナのそばへと近寄った。
悪夢にうなされているエリナ。彼女はいったい、どんな光景を見ているのだろうか。
俺は彼女のそばで禍々しく輝く黒い魔法陣に、そっと指で触れた。
――瞬間。
突然、地面がなくなったかのような感覚を覚える。
「う……」
俺は飛行機から空中に投げ出されたかのように、激しく落下していく。苦しくはない、呼吸もできる。だがこの激しい空気抵抗は、恐怖以外の何物でもない。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
俺は叫んだ。激しく声を上げた。ここが精神世界だと仮定して、現実の俺はやはり奇声を上げているのだろうか?
周囲は白い雲に覆われた空のように見える。生き物も建物も山も何もない。現実ではなく、あくまで精神世界の出来事だということだ。俺がどれだけ声を上げても、全く意味のないことだった。
やがて進行方向――すなわち下の方に巨大な黒い塊が見えていた。どうやら俺は、あそこに向かって吸い寄せられているらしい。
あそこに、エリナがいるのか?
これが、エリナの悪夢。
俺が夢の中でハーレムを責められていたように、彼女も苦しい状況に追いやられている。
それを止めることこそ、ここにきた目的というわけだ。
さあ、覚悟を決めようか。
俺はクラスメイトを助けてみせる。
落下を続けていた俺は、吸い寄せられるように黒い塊へと激突した。
そして、エリナの心へと入った。




