教室の記憶
乃蒼が記憶を失った。
この世界で培ったすべての記憶を失った彼女。俺と体を重ねたこと、告白したこと、メイド服を着て働いていたこと、全部全部……忘れてしまったんだ。
今、乃蒼にとってここは見知らぬ土地。俺たち顔見知りのクラスメイトはいるものの、剣やら鎧やらを身に着けているこの格好は、学園時代の記憶しかもたない彼女にとって異常でしかない。
乃蒼は震えている。何も分からないこの状況が、どれだけ彼女の負担になってしまっているのだろうか。
「良かった。島原さんって、教室いたときはこんな感じだったよね。ホント、下条君はひどいよね。性格まで歪めちゃって」
「…………」
歪めた、だと?
乃蒼は、俺と愛し合っていた。周りの人と少し話をするようになったし、一生懸命働いていた。それを歪んだとか、操ってるとか、そんな汚れた言葉で済ませるなんて……許せない!
こいつはここで止める! これ以上被害を出すわけにはいかないし、乃蒼を元に戻してもらわなくちゃならないから!
俺は懐からバッジを取り出した。勇者の屋敷で、春樹から預かっていたスキル使用のための切り札だ。
〈操心術〉で御影の動きを封じるっ!
「御影、そこを動くなっ!」
俺の言葉はスキルそのもの。
動くな、と言われれば例の瞬間移動のような動きも封じれる。
そして次は……、そうだ! バッジを捨てろと命令すれば、御影のスキルを封じることも可能じゃないかっ!
「御影、持ってるバ――」
俺が言えたのは、そこまでだった。
御影が、動いた。
例のスキルを使った時間圧縮瞬間移動で俺に肉薄した御影は、そのまま俺が握っていたバッジを弾き飛ばした。
な……なんだこいつ! なんで動けるんだ?
俺のスキルが……効いてない!
「君の能力は公爵様から教えてもらったよ」
メガネのブリッジを指で上げた御影が、まるで俺の見下すかのように語り掛けてくる。
「僕は時間を巻き戻すことができるんだ。確かに一瞬、僕の体は動かなくなった。でもまだ体が動いた時、つまり30秒前ぐらいに体の時間を戻せばそれでスキル解除。あ、加藤君の〈操心術〉も僕が解いておいたよ。彼は改心したんだから、もういいよね?」
俺のスキル……いや、この分だとスキル・魔法問わずあらゆる攻撃の無効化。体の時間を巻き戻すということは、要するに超回復にも等しい。
俺は御影を傷つけることができる。でも奴がスキルを使えば、そんな攻撃はなかったことになってしまうのだ。
チート過ぎる。
こんなの、勝てるわけないじゃないか。
もはや穏便な説得やスキルではどうしようもない。
ならば――
「〈白刃〉っ!」
俺は聖剣を使い白い刃を放った。
一瞬でいい! 御影が身に着けているバッジをはがすことができれば!
「フヒヒヒ、都合が悪くなったらすぐ暴力かい? いけないなぁ、お仕置きが必要だね」
御影へと迫っていた俺の〈白刃〉は、突然消えてしまった。まるで、彼の前に空気の壁でもあるかのように。
「ぐっ!」
なんだ?
肩に衝撃を覚えた俺は、とっさに左手でそこを押さえた。べっとりとした血がこびりついている。
攻撃された? 御影に? まさか……スキル?
「お前は、時間を操る能力者なんじゃないのか? なんで、俺を攻撃できるんだ?」
「フヒッ」
御影君が腕を前に突き出した。何も持ってはいない、そのはずなのに、なぜか彼の手から先が……歪んで見える。
そう、それはまるで真空の剣でも握っているかのように。
「僕の手から前方2メートル、太さ20センチの空間を三時間後の未来に飛ばす。未来の君は全く同じ場所に立っていないだろうし、そもそも僕たちの立ってる惑星は自転と公転を繰り返してるわけだから、僕の指定した空間は宇宙のどこか、すなわち何も存在しないのと一緒! つまりこの剣で触れた君の肩は、皮や肉だけ未来に飛ばされて抉られちゃったってことだよ」
く……。
未来に、肉と皮を飛ばした?
でも、今まで御影が使ってきたスキル、体の一部が吹っ飛んだりしてなかったよな?
御影は自分の体や乃蒼の脳を直した。星の回転を考慮するなら、乃蒼の脳がどこかに飛び出ていないとつじつまが合わない。
つまり御影は、必要に応じて調節ができるということ。対象の時間のみを巻き戻して老化させたり若返らせたりするか、それともその対象の座標を固定したまま宇宙空間のどこかに放り出すか。
なんて応用力だ。俺や加藤とは次元が違う、まさしく最強のスキルだ。
「これが僕のスキル、〈時間操作〉で生み出した剣――〈時空剣〉っ!」
あんなのに触れたら……死ぬ。
御影は〈時空剣〉を握り締めたまま、俺に迫ってきた。
俺は防戦一方だった。剣とか鎧とか、そんな既存の物質が全くあてにならない攻防。情けない話だが、床に転がりながら逃げるのが精一杯だった。
ドアを開けて逃げようかと思ったがそうもいかない。ここで俺がいなくなれば、残されたクラスの女子たちが……。
「ははっ、ははははっ、弱いねぇ、情けないね。安心して、体の一部でも残ってたらもとに戻してあげるからああああああ!」
まずい……。
御影は俺を殺すまではしないかもしれない。でも、時間を巻き戻すこと前提で死に等しい攻撃を加えてくる可能性は……十分存在する。
逃げるわけにもいかない俺は、部屋の隅に追い込まれるしかなかった。
「お仕置きだよ、下条君。君の心が強ければ、魔剣に操られることはなかった。っていうか心の中でハーレム願望があったんでしょ? きっとそうだ、そうに決まってる。魔剣はそんな君の悪意を増幅させてしまったんだよね? そう、全部君が悪いんだ……」
「くそおおっ!」
俺は聖剣の刃を放った。しかし、そんながむしゃらな技は、御影のスキルによって打ち消されてしまう。
「……剣と同じように、僕の正面に壁を張って未来に飛ばしてるんだ。君の攻撃は、絶対に当たらない」
まさか……ここまでとは。
万事休す。
俺は目を瞑って終わりを待つしかなかった。
「…………」
しかし、いつまでたってもそのとどめの一撃はやってこない。
俺がゆっくりと目を開けると、そこには衝撃の光景が広がっていた。
御影と俺との間に、乃蒼が割り込んでいたのだ。
一年に及ぶ記憶を失い、俺との親密な関係がなくなってしまったはずの彼女が、一体どうして……。
「止めて……」
声も体の震わせながら、乃蒼は御影に願いを言った。
「の……あ、島原さん。……なんでだよ、なんで、そいつを庇うんだよ」
「……私、し、下条君のことが好きなの。ずっと好きだったの」
え……?
「だからお願い! 私の好きな人を、傷つけないで!」
「な、なんで……、そいつのことが好きって? だって、洗脳は解いたはずなのに、元に戻ったはずなのにいいいいいいっ!」
「分からないのか!」
うろたえる御影に、俺は声を飛ばす。
「乃蒼は俺のことが好きだったんだ! この世界に来る前から、好意的に思ってた。だからお前が時間を巻き戻しても効果なんてない! 乃蒼は、はじめからこうだったんだ!」
「そ、そんな……。だって、僕は主人公で、島原さんと……。う……う……うああああああああああああああああああっ!」
御影は激情に囚われ地面をのたうち回った。まるで体に毒が回っているかのように、醜く芋虫かなにかみたいな姿だ。
「う……ううう……好き、だなんて。恥ずか……しいよ。の、乃蒼って。下条君に、下の名前で呼ばれてるし。う……うううぅううぅ」
あ、昔は『島原さん』って呼んでたんだよな。
「ごめん、ここ最近の記憶がなかったんだよな。『島原さん』って呼ぶようにするから」
「待って! それ、いい……よ」
「え?」
「乃蒼のままで……い……ぃ……」
乃蒼は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
記憶はなくなったかもしれない。でも、元の世界で俺たちが築いてきた絆は……失われていなかった。
奇跡が、起きた。
俺は、乃蒼に助けられた。
御影を倒しきったわけじゃない。でも、俺は確かに……あの時危険な状態だった。
この奇跡に、感謝を。




