9日目、脱走へご招待
夜と朝が入れ替わる黎明。
見回りに来た牢番をセラステス侯爵が呼びとめた。
「おい、牢番。こちらに来い」
若く美しく金持ちのセラステス侯爵は、何でも思い通りになる人生を歩んできた。挫折したことも諦めたこともない。自信が喪失したこともない。常に大勢の使用人に傅かれ、周囲の人々から称賛されて、叶わぬ望みなどなかった。
だから自分が望みさえすれば。
ステラが喜んで従うものと思っていたのである。
ステラに何を言って何をしたのかを忘却して、気まぐれに手を差し伸べさえすればステラが歓喜して服従するのだと。
それが正当なことだと。
自分は望みを言うだけで良いのだと。
セラステス侯爵は愚かにもそう考えていたのであった。それが通常時の思考であるセラステス侯爵であるのに、さらに今は精神的に追い込められていて、自分本位な思考に凝固してしまっていた。全てが自分の欲するようになるのだ、と。自分を中心に捉え、他人を顧みない自分勝手な我欲のフルスロットル状態であった。
なので。
「牢番。このカフスをやろう。鍵を開けよ」
と右の袖口を留めていた金のカフスをとって牢番に差し出した。牢番がセラステス侯爵の命令をきくことが当然である、と思って。
カフスを受け取った牢番は片眉をあげた。腰にさげている鍵を指先で弄ぶ。シャランと鍵が鳴った。
「カフスって左右が揃っているモンだろ。1個じゃ足りないね」
「平民の分際で強欲な! そら、左のカフスだ!」
石の床に投げつけられたカフスを拾って、牢番はヘラリと笑う。腰から鍵を取った。鉄格子を挟んで牢番がセラステスに告げた。
「アンタさ、牢脱けは重罪だってわかっている? いいの?」
「俺はすぐに妻と会わねばならんのだ。離婚が成立してしまってからでは遅い。それに俺は侯爵だ。罰など恐ろしくない」
「へぇへぇ。お偉いお貴族様ですモンね」
鍵穴に差し込み回す。
ガチャン、と鍵が開けられた。
「あ〜、鍵を閉め忘れたかも? 忙しいし、後で確認しよう。そうしよう」
大きな独り言を言いながら牢番が立ち去っていく。
ギィ、と鉄格子が軋み開いた。
セラステス侯爵が堂々と貴族牢から出る。
「ステラ、待っていろ。離婚など許さん。おまえはシルヴィア伯爵との和解の橋渡しになってもらう必要があるのだ」
薄暗い廊下にセラステス侯爵の足音が響き、反響した。
その後ろ姿を離れた場所から多くの者が見ていた。
ルーナ、ラヴァン伯爵夫人、シルヴィア伯爵、グレードス伯爵、文官や騎士たちである。
「あ〜、やっぱり脱獄したぞ」
「バカだな。俺、『とある侯爵家の白い結婚』を観たんだ。演じられている通りのバカだ。あからさますぎるのに、罠とか疑わないなんて」
「自分で重罪刑に署名したようなものだからな」
「あの牢番、演技が上手かったな」
「フリードの寸劇を観ているみたいな気分だった」
文官と騎士たちがヒソヒソと話す。
「脱走は重罪よ。これで公明正大にセラステス侯爵を処分できる。ステラは自由になれるわ」
とにこにこのルーナ。
「あらあら、貴族牢でブツブツと言って煮詰まっていると思っていたら、一人よがりを煮詰めて凝縮して残った沈殿物みたいなお馬鹿さんになってしまったのねぇ」
と容赦のないラヴァン伯爵夫人。
「和解だと、ふざけたことを。可愛いルーナを傷つけた者をわたしが赦すと思っているのか」
と凍えるように冷酷なシルヴィア伯爵。
「腐った部分は速やかに切除して処分することが木を保つ方法ですから、了承してください。大事なのは木である侯爵家であって貴方ではないのです。枝葉の親族と家臣たちのために貴方は不要なのですよ」
と淡々とした口調のグレードス伯爵。
ジャンジャンジャン!
「寄ってらっしゃい、観てらっしゃい!」
弁士が満開の笑顔である。
「急展開だよ〜! 急展開! なんとデルグトスが脱走したんだ〜。『とある侯爵家の白い結婚』の9日目、貴族牢から脱走したデルグトスは〜」
ジャジャンッ!!
「なんと! 王宮の裏門で待ち構えていた警備兵たちに取り囲まれるんだ〜」
「捕らえろ!!」
警備兵たちがデルグトス役の俳優を押さえる。
「やめろ! 俺に触れるな!」
デルグトスが抵抗するが、警備兵たちが力をゆるめることはない。
「脱獄は重大な犯罪だ。おまえは貴族ではない、もはや犯罪者だ!」
警備隊長がデルグトスに冷たく言い渡した。
「無礼者め! 俺は侯爵だぞ!」
わめくデルグトスに、
「いいえ、犯罪者です」
と、レリーヌの母親である伯爵夫人役の女優が淑やかに進み出た。隣にはレリーヌの姉妹役の女優もいる。劇では双子ではなく姉妹との設定のため、顔は似ていない。双子でなかった理由は単純。レリーヌ役の女優が泣く以外ダイコンであったからである。
せっかくレリーヌ人気が絶頂なのに、ダイコンが露見しては人気に翳りがさす。後援の商会も大反対して、レリーヌが二役をする同じ顔の双子とはならずに姉妹設定で別の女優が立つこととなったのだった。
「よくもわたくしの娘を虐げたわね。覚悟しなさい」
伯爵夫人がデルグトスに宣告する。
「レリーヌを部屋に監禁したことは発覚しているのです。忌々しいと思っていたのに、都合よく脱獄してくれるなんて。ほほほ、脱走は凶行な重科です。国王陛下の裁決が楽しみですこと」
「知っています? 貴族牢を脱走した貴族が爵位を失った記録があるのです。デルグトス様の爵位は無事だといいですけど、おそらく難しいでしょうね」
レリーヌの姉妹役の女優が毅然とした態度で言う。
「王宮の貴族牢からの脱走は、ただの脱獄よりも重い刑罰になることをご存じでしょう? 王宮での犯罪ですもの、反逆罪に等しくなるのですわ」
一瞬で血の気をなくしたデルグトス。妄想に走り気味であったが、理解力と知性は残っていたらしい。
「は、反逆罪……」
「やったーっ!」
観客たちが大騒ぎする。
「今度こそデルグトスは再起不能だよな!」
「うんうん。反逆罪だもん!」
「いやいや、罪が決定するまで油断はできないぞ」
「レリーヌちゃんが心配だよ」
「反逆罪だぜ。もしかしてレリーヌちゃん、巻き込まれるんじゃないか?」
「ギャー、ダメだよ。ダメ! レリーヌちゃんには罪はない!」
「悪いのはデルグトスだよ!」
「そうだそうだ! デルグトスが極悪なんだ!!」
口々に観客たちが騒がしく意見を交わす。
ジャンジャンジャン!
「皆の衆、いよいよ大詰めだよ〜。さてデルグトスはどうなるのかな〜? 明日も観に来ておくれよ〜」




