6日目、ラヴァン伯爵夫人の微笑み
ラヴァン伯爵夫人はベッドに横たわる夫の手を優しくとった。
「だんな様、セラステス侯爵家に行ってまいりますわ」
「ゥ゙ゥ゙ヴッ」
ラヴァン伯爵は歯ぎしりをするが、手を振り払うこともできない。
「安心なさって。ルーナの子どもが生まれて成人するまでは、だんな様にラヴァン伯爵でいてもらわなくてはならないのですから。そう、あと20年くらい。だんな様は身動きもできずにひたすら天井だけを見る毎日を過ごすことになりますけれども、きちんとお世話はいたしますわ。退屈のあまり精神が不調になっても、肉体が健康であれば良いのです」
慈母のような微笑をラヴァン伯爵夫人が浮かべた。ゾッと総毛立つほどに美しい。
「私が伯爵代理としてしっかりと伯爵家を存続させますから大丈夫ですわ。だんな様がずっとベッドの上で生きていてくれるだけで、余計な外野の口出しを防ぐことができるのです」
ラヴァン伯爵夫人は優雅に立ち上がった。
「ふふ、ラヴァン伯爵家の全権はわたくしのもの。これからはルーナとステラに害になる者はいりません」
セラステス侯爵はラヴァン伯爵夫人の来訪を笑顔で歓迎した。だが上辺は取り繕っているが、焦りで背中が汗でビッショリと濡れていた。
「ようこそ、ラヴァン伯爵夫人」
「訪問の許可をありがとうございます、セラステス侯爵様」
薄闇の中で咲く夕顔のような白い顔が、麗しい微笑となって開花した。ラヴァン伯爵夫人の長い睫毛が瞬く。
「娘のステラが病気とのこと。わたくし心配で心配で……。使者ではステラの様子がわからず、矢も盾もたまらず見舞いに来てしまいましたの。急な訪問をお許しくださいませね」
心配げな吐息は花の香りがした。ラヴァン伯爵夫人が身を乗り出す。
「それで医師の診断は何と? ステラに会ってもよろしいでしょうか?」
応接室の豪華な椅子に腰を落としているセラステス侯爵は、ラヴァン伯爵夫人を押しとどめようとするかのように片手をあげた。
「申し訳ありませんが……。どうやら感染症らしく、しばらくは面会は禁止するようにと医師が診断しておりまして。せっかくお越しいただいだが、ステラとは会えないのですよ」
「まぁ……!」
ラヴァン伯爵夫人が青褪める。
「それは……、病が重いということでしょうか?」
「いえ、流感みたいなものですので大丈夫です。ですので完治しましたらお知らせいたしますから、今日のところはお引き取りを」
ラヴァン伯爵夫人を追い返したいセラステス侯爵は、ギリギリの範囲で綻びのないような嘘を重ねる。重病ならばラヴァン伯爵夫人は万が一を考えて必死にステラに会おうとするだろうし、病が軽ければ見舞いを断る口実にはできない。
「お気持ちだけ頂戴して、また後日に」
すみれ色のラヴァン伯爵夫人の瞳に生々しい痛みが宿る。娘を案じる母親の瞳だった。
「ご無理は言えませんものね」
ホッ、と息を吐き出しかけたセラステス侯爵にラヴァン伯爵夫人が平坦な口調で言った。
「そういえば、王立劇場の件なのですが……」
ラヴァン伯爵夫人の冷たく無表情な声が、氷のごとく、剣のように、セラステス侯爵の胸に突き刺さった。
「ステラの持参金の一部が盗まれたと聞きました。保管管理は問題ないのでしょうか?」
セラステス侯爵の額に冷や汗が滲む。
「い、今、他に盗まれた品物がないか確認中でして」
「そうなのですか?」
ラヴァン伯爵夫人が思案顔となる。
「では、明日の王宮夜会で結果を教えていただけますか? 明日の夜会は王都在住の貴族は基本的に全員出席が原則ですもの。セラステス侯爵も出席なさいますでしょう?」
「明日ならば結果も出ていると思いますので。明日の夜に」
とりあえず今の危機を回避したいセラステス侯爵はラヴァン伯爵夫人の提案に応える。
ラヴァン伯爵夫人が貴婦人らしく上品に微笑んだ。
「わかりましたわ。では、明日の夜に」
ジャンジャンジャン!
「寄ってらっしゃい、観てらっしゃい!」
弁士の弦楽器が空気をなぐような音を奏でる。
「生ゴミ侯爵がまたまたやっちまったよ〜。レリーヌの母親が侯爵家に来たのに追い返したんだよ〜。酷いと思うだろ〜、酷すぎるよね〜」
ジャン、ジャン!
「侯爵って白い結婚宣言をしてさ〜、それもマズイけど、レリーヌの持参金を奪って監禁したのが致命的らしいよ〜。法律に詳しい人が教えてくれたんだ〜。その人がさ〜、妻の財産権の侵害とか言っていたよ〜」
弁士は情報伝達や社会の出来事を伝えて提供する役割も担うことがあった。
「それでね〜、貴族様の社交界でも侯爵の噂が尾ビレや背ビレや腹ビレをつけた巨大魚に成長して泳ぎ回っているんだって〜。今日は『とある侯爵家の白い結婚』6日目だよ〜。皆の衆、観ておくれよ〜」
「……お母様……」
窓にすがって、レリーヌ役の女優が帰ってゆく母親の馬車を見送る。
「ああ……! 伯爵家に帰りたい……!」
レリーヌがほろほろと涙を零す。震える両手を組む姿は、朝露に濡れた蝶々のようにか弱く痛ましい。悲愴な美しさで華奢な肩をわななかせている。
儚さがレベルカンストしているので、今日も観客の涙腺を鷲掴みであった。観客はレリーヌがなよやかに泣く姿に共鳴して感涙している。
「うっ、うっ、うっ……」
レリーヌの泣き声と女性客の泣き声が一体化していた。
チャリリーン。
チャリリーン。
チャリリーン。
銅貨が乱れ飛ぶ。なかには銀貨を貢ぐ者もいた。チラリと金貨も光っている。
ぽろり、と落ちるレリーヌの涙の威力がものすごい。
その数メートル離れた場所では、デルグトス役の俳優が頭をかかえていた。
「どうすべきなのだ。いっそレリーヌを……、いやダメだ。これだけ噂が広がっているのにレリーヌに何かあれば、それこそ侯爵家は処罰対象となるやも。伯爵家に和解金を渡しての離婚が手堅い選択か?」
デルグトスは唇を噛んだ。
「どうして、どうして、こんなことに……」
「てめぇが悪いことをしたからだろっ!!」
観客が拳を振り上げる。
「レリーヌちゃんを監禁するな!」
「レリーヌちゃんを自由にしろ!」
「レリーヌちゃんの持参金を返せ!」
「レリーヌちゃんと離婚しろ!」
口々に男性客が怒鳴る。空気が揺れるほどの熱気が燃えた。
「「「「レリーヌちゃんと離婚だーっ!!!」」」」




