第99話 死の脅迫文
依然として哲矢は花と共に無人の教室に留まり続けていた。
この間、話しそびれてしまっていた利奈についての話を聞いていたのだ。
利奈は応援者の受付期間延長を今日の放課後までという条件で了承してくれたのだという。
「おおっやったな」
「うん。あと、少しね。込み入った話もしたんだ」
「……えっ?」
「鶴間さん、生徒会でしょ? なにか協力してくれるかもって思って」
「ちょ、ちょっと待ってくれっ。一体どこまで話したんだ……?」
「ごめん……。大体のことは話しちゃった。ほらっ、鶴間さんクラスメイトでもあるから事情もよく分かってるし、それに信頼できるって思ったから」
「…………」
「正直、立会演説会で社家先生の証言を崩そうとしてるって話した時、不安もあったの。せっかくの舞台を台無しにされることで怒るんじゃないかって。けど、ちゃんと理解してくれて」
「鶴間さんも橋本君たちの横暴さを間近で見て疑問に感じていたはずだから、絶対分かってくれるはずって思って。もちろん驚いていたよ。でも、最後にはなにかあったら力になるって言ってくれたの」
「そっか」
「ごめんね。哲矢君に断りもなく勝手に話しちゃって……」
「なんで謝るんだよ。助かったよ、話しておいてくれてさ」
クラスメイトを無条件に受け入れる覚悟ができていると口にしている手前、花の行動を哲矢が否定できるはずもなく。
ただ、心の中にはモヤっとした感情だけが残り続けていた。
果たして利奈は信用できる人物なのだろうか。
自分の言動と激しく矛盾するようだが、哲矢はまだ彼女のことが信頼できなかった。
もしかするとそれは、ただ単に話したことがほとんどないからという些細な理由によるものかもしれない。
(……いや、俺は色々あってきっと頭が疲れてるんだ)
花が利奈のことを信頼できると言ったのだ。
ならば、哲矢がこれ以上疑問に思うことは何もなかった。
哲矢は一度窓の外に目を向けて気持ちを切り替えると、一兵の件を花に口にする。
「こっちこそ謝らなきゃならないことがあるんだ。せっかく鶴間に許可を貰ったところ悪いんだけど、実はまだ稲村ヶ崎に声をかけられてなくて……」
「うん、もちろんそれも分かってるよ。あんな騒ぎがあったんだもん。仕方ないよ」
「この後、多目的ホールに移動したら稲村ヶ崎のこと探そうと思う。あいつ、いるよな?」
「稲村ヶ崎君って午後の授業は比較的出席していることが多いんだ。だから、多分いると思うよ」
ディベート・ディスカッションの授業で一兵とコンタクトを取れない場合、放課後まで話をするチャンスはなくなってしまう。
そうなると、超高速型の帰宅部であるという彼を取り逃してしまう可能性が考えられた。
それだけはどうしても避けなければならない、と哲矢は思う。
悠長に過ごしている時間も惜しくなった。
「よっし! それじゃ、俺たちも移動しようぜ」
「だねっ。教科書準備するからちょっと待ってて」
「あ、俺もだ」
そう言いながら二人で窓際の席へと向かう。
ちょうどそのタイミングで六時間目を告げるチャイムが校舎に鳴り響いた。
ふと、辺りの景色に目が留まる。
先ほどの騒動が嘘のように室内は静けさを取り戻していた。
自分の机に目を落としてみても、そこに落書きが書き込まれているということはない。
これまで存在した悪意ある出来ごとなど何もなかったかのように、教室は平凡な学園生活の光景を演じていた。
(さてと、英語の教科書は……)
そういえば、移動教室で授業を受けることはこの学園に来て初めてのことだ、と哲矢は思う。
多目的ホールとは一体どんなところなのだろうか。
そんなことを思いながら、哲矢は前の席で同じように準備をしている花に声をかける。
「なぁ、花。多目的ホールってどんなところなんだ?」
そう自然と聞いたつもりだった。
しかし、彼女は哲矢のその言葉を受けてぴたりと動きを止める。
「んっ……どうした?」
哲矢がそう訊ねても花は返事をしない。
後ろから花の背中を覗き込むと、彼女が右手に何か持っているのが哲矢には分かった。
(手紙……?)
「ラブレターでも机に入ってたかぁ?」と、おどけた調子で哲矢が訊ねるも、それについても彼女は何も答えない。
やがて、花が華奢な肩を震わせながら左の拳を強く握り締めるのが見えると、哲矢はようやく事態の異変に気づくのだった。
「お、おいっ、花っ!」
哲矢は立ち上がると、花の正面に回り込んで彼女が視線を落としている手紙に目を向ける。
ほとんど好奇心からそれを覗き込んだ哲矢であったが、すぐに自分の行動を後悔することになった。
「な……ッ!?」
哲矢がそう声を上げた瞬間、花の手からするりと一枚の便箋が落ちる。
床に貼りついたそれに目を向けると、真っ先に〝死〟という文字の羅列が飛び込んでくる。
「んだよ、これ……」
一枚の便箋は、〝死〟という文字でびっしりと埋め尽くされており、下段に小さく『生徒会長代理選挙の立候補を辞退しろ。さもなくばお前に死が訪れる』という言葉が書き込まれていた。
すべて手書きの筆文字だ。
滴り落ちた墨汁の跡がより不気味さを際立たせている。
紛れもない脅迫文がそこにあった。
「花、大丈夫かっ?」
「……っ」
哲矢の何度目かの呼びかけで花はようやく我に返ったように目を見開く。
「……つ、机の中に、これが……」
それから彼女は震え声で何か口にするも、小さくて哲矢は上手く聞き取ることができない。
「こんな悪趣味、一体誰が……」
捨てることもできず、哲矢はそれを自分の机の上に置いてしまう。
正直、触るのも躊躇われた。
その羅列の中に、とてつもなく大きな負のオーラが含まれていることに気づいたからだ。
それを受け取った花はさぞショックだったに違いない、と哲矢は気遣う。
ここまであからさまな敵意を向けられることは今まで無かったのかもしれない。
「…………」
花は心ここにあらずといった様子で何もない教室の床にじっと目を落としていた。
彼女の気持ちは哲矢には痛いほど理解できた。
逆の立場なら自分も同じように言葉を失っていたに違いなかったからだ。
しかも、生徒会長代理選挙の立候補を辞退しろと脅されている。
将人の冤罪を証明する手段も奪われるかもしれないというこの状況は、二度彼女にショックを与えていた。
だが、いつまでもここで感傷的になっている時間はなかった。
「花、とりあえず教室を移動しないか? これについてはまた後で考えよう」
「……分かった」
哲矢は花がそう答えるのを確認すると、脅迫文を自分の机の中に無理やり丸めて突っ込む。
「……次は……ディベート・ディスカッションの授業だから……。えっと……」
彼女は呆然とひとり言を呟いて授業の準備を進める。
その声は微かに震えていた。
「大丈夫。ただのいたずらだよ」
「……うん、そだね……。こんなの、いたずらに決まってる……」
そう小さく頷くと、花は教科書を手にして立ち上がる。
そのまま二人は勢いよく教室を飛び出した。
まるで、歪な空間から少しでも遠くへ逃げるように。




