第87話 孤独な戦場
花がいなくなったことで哲矢は教室で一人となってしまう。
教卓の近くに目を向けると利奈もそこから姿を消していた。
おそらく、明日の立会演説会のために彼女も生徒会として何か仕事があるのだろう、と哲矢は思った。
またどういうわけか、翠と放送部女子二人の姿も見当たらない。
真面目な三人のことだ。
サボっているというわけではないはずだ。
ひょっとすると、放送部でも明日の立会演説会の準備が何かあるのかもしれない。
「ククククッ」
哲矢の近くにいる者と言えば、先ほどからずっと奇妙な笑い声を上げ続けている隣りの席の太った男子くらいのものだ。
彼はセンター分けの長髪を執拗に何度もかき上げると、「いざ行かん!」と芝居がかった台詞を口にして立ち上がり、ギターケースを手にして颯爽と教室から出て行ってしまう。
(なんだったんだ、あいつ……)
彼がいなくなってしまうと、集団の騒ぎ声がより響いて哲矢の耳に聞こえてくる。
最初、授業が始まるまでの辛抱だと思っていた哲矢であったが、その考えが浅はかであったことをすぐに悟る。
集団の騒ぎは授業が始まってからも収まることはなかった。
教壇に立つ教師を無視して大声で駄弁るのは基本で、スマートフォンを堂々と弄ったり、漫画を読んで声を出して笑ったり、ポーチを出してその場でメイクを始めたり、イヤホンで音楽を聴いたり……。
やりたい放題だ。
哲矢は大貴に直接言ってやりたかった。
なぜ取り巻きに力を与えたのか、と。
(お前だけで十分じゃなかったのかよ)
高三の新学期という大事な時期だ。
授業を真面目に受けている生徒にとっては苦痛以外の何ものでもないだろう。
中には、片耳を塞いで集団の騒ぎ声を無視しながら、教師が黒板に書く内容を必死でノートに書き写している生徒も存在する。
こんな環境では集中して授業を受けることは難しい。
クラスメイトの苛立ちが哲矢にははっきりと分かった。
というのも、宝野学園は中高一貫教育を敷いており、中等部は簡単な適性検査と作文だけで入学できるため、大学受験で初めて本格的な受験を経験するという生徒がほとんどだからだ。
彼らの必死さはとてもよく理解できた。
教師はというと完全に見て見ぬふりだ。
騒ぎ続ける彩夏たちを注意しようとしない。
クラスメイトのほとんどは、元から備わっていた彼女らの横暴さに慣れてしまっているのかもしれない、と哲矢はふと思った。
付き合いの長い生徒は小学校から学校が同じなのだ。
ニュータウンとは、つまりそうした閉鎖的な関係も生んでしまう場所なのである。
諦めの長い影が教室全体を覆っていく。
哲矢は花に言われた通り、目を瞑ることに努めていた。
ここでもう一度問題を起こせば、少年調査官の職務は間違いなく下ろされてしまうことだろう。
先ほど清川から最後通告を受けている身なのだ。
(ここは我慢だ。我慢しろ)
今は慎重にならなければいけない。
決めたはずだ、と哲矢は思い出す。
生徒会長代理選挙の場で社家に証言の嘘を認めさせる、と。
花もそのために行動してくれようとしている。
(明日までの辛抱だ……)
ここで何もかも水の泡にするわけにはいかなかった。
哲矢はぐっと拳を握り締め、教科書に目を落とすのであった。
◇
それから……。
四時間目になっても花が教室に戻ってくることはなかった。
説明会とやらが予想以上に長引いているのかもしれない。
一方で集団のバカ騒ぎはエスカレートし、既に許容の範囲を大きく越えていた。
しかし、それでも教師は何も注意しようとしない。
どの授業の担当でも例外はなかった。
クラスメイトも面倒ごとには巻き込まれたくないという思いがあるのだろう。
教師と同じように見て見ぬふりを続けている。
異様な空間が教室にでき上がっていた。
昨日と同じだ、と哲矢は思う。
あの数学教師に暴行された時も誰も手を差し伸べてくれようとしなかった。
(どうしてだよ。おかしいと思うならそう声を上げるべきなんじゃないのか?)
正直、哲矢の忍耐は限界寸前であった。
これまでの哲矢ならば無視できていたかもしれない。
けれどこの街に来て、哲矢は少しずつ変わっていた。
ダメだと抑制する声が徐々に小さくなっていき、心の奥底で膨らみ続けてきた火種がついに着火してしまう。
気づけば、哲矢の体は無意識のうちに動いていた。
バンッ!!
両手で思いっきり机を叩くと、哲矢は騒ぎ続ける集団に向けて「黙れよ」と低い声で口にする。
すると、これまで騒ぎ続けていた不良たちの視線が一斉に哲矢の方へ向いた。
古典の担当教師も突然の哲矢の発言に驚いたように、チョークを片手に持ったままフリーズしてしまっている。
クラスメイトらも、今度は一体何が起こるのかと期待半分不安半分といった様子で哲矢に視線を向けていた。
その時――。
(……ッ!)
哲矢はスッと鋭く引かれた大きな瞳と目が合う。
一派のリーダーであるという彩夏が哲矢の姿を席に座ったままじっと睨みつけていたのだ。
その目に哲矢はデジャヴを感じる。
そして、すぐにそれが何であるかを思い出す。
(そうか、大貴の……)
彼の目にとても似ているような気がする、と哲矢はとっさに思った。
彼女の瞳は酷く濁っていた。
まるで、光の射し込まない暗い海の底のような色をしていたのだ。
「…………」
彩夏は無言で哲矢を睨みつけたまま口元を歪ませる。
その嘲笑には、大貴と対峙した時と同じようなプレッシャーがあった。
瞬時に哲矢の体はメドゥーサに睨まれたように硬くなって動かなくなってしまう。
(ま、またかよっ……!)
昨日と同じように哲矢は完全に萎縮してしまっていた。
しかも、今日はメイは登校していない。
歯向かった以上、一人でこの状況をなんとかしなければならなかった。
室内の雑音は膨れ上がる。
「んだテメーッは」
「おいなんじゃオラッ!!」
寒川と二宮が大きな音を立てて勢い良く椅子から立ち上がる。
「あいつバッカじゃねぇ? うちらに盾突くなんてさぁー♪」
ネイルを触りながら華音が甲高い声で笑って哲矢を挑発してくる。
大男の中井だけはふんぞり返って腕を組んだまま目を閉じていた。
「……っ……」
次の言葉を絞り出そうとする哲矢であったが、上手く声が出てこない。
(だからぁ毎回このパターンに陥るのはやめようぜっ……!)
もちろん、教室にいる誰もが哲矢の後に続いて何か発言するようなことはなかった。
ただ、静けさが増しただけだ。
ちょうどそんなタイミングで……。
「――えっ?」
からからと音を立てて後方のドアがゆっくりと開く。
そこから顔を覗かせたのは、教室の張り詰めた光景に唖然とした表情を浮かべる花であった。
だが、ここからの彼女の行動が早かった。
場の状況を見て一瞬で機転を利かせた花は、「ごめんなさぁ~い!!」と大声で叫びながら哲矢の元まで駆けつけると、その手を引いて廊下へと戻っていく。
「いっ……ちょっ!?」
抵抗する間もなく、哲矢は花に連れられ、強引に教室から出されてしまう。
その間際、不気味に笑う彩夏と哲矢は目が合うのであった。




