第85話 変わる日常
職務棟の職員口を後にした哲矢は、その足で教室棟へと向かった。
腕時計を確認すると時刻は8時5分を示していた。
朝のホームルームまではあと30分もある。
そこで哲矢はふと花のことを思い出す。
(多分もう教室に着いてるんだろうな)
というのも、昨日の病院のロビーで、哲矢は彼女から今朝は朝早くに登校して演説文を書くという話を聞いていたのだ。
たとえ、立会演説会で例の計画を実行するとしても、演説文は提出しておかなければならない、というのが彼女の話であった。
それからすぐに哲矢は三年A組の前に到着する。
これまでの日々が嘘のように、哲矢は教室の中へ入ることに抵抗感を抱かなくなっていた。
それもすべて、昨日の朝、クラスメイトたちに自身の正体を打ち明けたことがきっかけだろう。
あれで自分に自信がついたのだ。
ガラガラガラー。
後方のドアを開けて室内へと足を踏み入れる。
昨日は五時間目以降、無断で授業を休んでしまっていたが、そのことすらも哲矢は気にしなくなっていた。
自然とすでに登校していたクラスメイトらの目が動く。
だが、その視線にこれまでのような執拗さは感じられない。
彼らはすぐに哲矢から目を離すと、それぞれの世界へと戻っていった。
これも、昨日自身の胸の内を赤裸々に打ち明けたお陰なのかもしれない。
受け入れられ始めているという感覚を哲矢は抱く。
だが、忘れてはいけないことがあった。
先ほどの清川の言葉が哲矢の脳裏に甦る。
昨日の告白を教師に告げ口した者が確実に存在するのだ。
落書きの一件だってまだ犯人は分かっていない。
(……いや、こんなことを考えるのはやめだ)
告げ口をした者が誰か分かったところで意味はない。
それは、哲矢自身が選んだ選択だからだ。
すべて覚悟の上で、昨日は皆に正体をバラすことにしたのである。
頭を振って自分の席の近くに哲矢が目を向けると、すぐに花の姿が視界に飛び込んでくる。
彼女は背中を少し猫背にして机に齧りついていた。
おそらく、まだ演説文を書き終えていないのだろう。
邪魔するのも悪いと思い、哲矢はできるだけ音を立てないように自身の席へと着席する。
哲矢が席に着いても花は集中して自分の机に向かい続けていた。
つい癖でブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す哲矢であったが、電源が入らないのだということを思い出す。
このまま持っていてもかさばるだけであったので、哲矢は机の中にそれを突っ込む。
スマートフォンが使えないとなるとこれと言って時間を潰せるものがない。
少しは予習でもするかと思い、学生鞄から教科書を取り出す哲矢であったが……。
「……ん?」
その時、何か呻き声のようなものが哲矢の耳に飛んでくる。
「オ、オ……う」
一瞬花がうなっているのかと思い、彼女の背中へ哲矢が目を向けるも、声の主はまったくの予想外の人物からであった。
「……オ、オ、お、おはよう……ご、ざいま、す……」
「えっ」
すぐに哲矢は気がつく。
空席を一つ挟んだ右隣の席の女子生徒が声をかけてきたのだ、と。
反射的に哲矢は同じ言葉を繰り返していた。
「お、おはよう……」
すると、その言葉を聞いてメガネの女子も安心したのか。
ホッと胸を撫で下ろす仕草を見せてから参考書の勉強に戻っていったようであった。
(ビビったぁ……)
とても自然とは言い難かったが、朝の挨拶を哲矢はクラスメイトからされた。
たったそれだけのことでも哲矢はパッと心が明るくなる。
ちょっとずつではあるが、このクラスと打ち解けられているという実感を哲矢は抱くのであった。
◇
それから暫しの間、机に座って哲矢が教科書で予習をしていると、前の席に座る花が困惑したような声を上げる。
「うわぁ~ダメダメだっ……」
「……ん? どこか詰まってるのか?」
「ひゃぁっ!?」
哲矢が声をかけると花はびくっと体を震わせて席で飛び上がる。
彼女は恐る恐るといった様子で顔を哲矢に振り向かせてきた。
「て、哲矢君っ……いつの間に!?」
「いや、もう随分前から座ってたけど」
「ご、ごめんっ……! 全然気づかなったよ……」
「だろうな。すげー書くことに集中してたから声かけづらくてさ」
「メイちゃんは……来られるわけないよね」
「ああ。さすがに今日は休んでもらったよ」
「体調はどうなの?」
「ははっ、心配してたのがバカらしいくらいにケロっとしたよ」
「そっかぁ~。よかった……」
花はホッと胸を撫で下ろす。
心の底から心配してくれていたのだろう。
メイも本当に素晴らしい友達を手に入れたものだ、と哲矢は少しだけ彼女が羨ましくなる。
「……それで、今書いてるのって、昨日言ってた例の演説文だよな? なにか問題でもあったのか?」
「う、うん……。さっきから何度も書き直してるんだけど、公約と結びが全然上手く書けなくて……」
そう口にしながら花は短いツインテールをくるくると指で弄りながら机の上に突っ伏してしまう。
一生懸命文字と格闘しているようであった。
哲矢は一度周りに目を向けると、小声で花に話しかける。
「……でもさ。実際それはほとんど使わないんだろうし、適当でもいいんじゃないか?」
「そうかもしれないけど……代理選自体は私たちの計画が終わった後も生きていると思うから、公約はきちんと決めておかないとだよね」
「えっ? あ、ああ……悪い。そうだよな」
全校生徒の前で社家に真相を問い質して大貴の事件関与を認めさせる、というのが最終ゴールである哲矢に対して、花はそれですべてが終わりというわけではない。
彼女の学園生活はこの後も続くのだ。
麻唯がいつ目を覚ますか分からない現状、生徒会長代理の座に就いておきたいというのが花の本音だろう。
明日の計画はそれを邪魔してしまっている。
改めてそのことに気づき、哲矢途端に彼女に対して申し訳ない気持ちとなるのであった。
「締め切りは一時間目が始まるまでなの。はぁ~……。昨日の夜からずっーと考えてるんだけどね……」
花が力なさげに答える。
「そうか。でも、朝のホームルームも始まってないし、まだ時間はあるから。ギリギリまで粘ってみようぜ」
「ありがとっ! そうだよね。もう少し頑張ってみるよ!」
そう自分に喝を入れると、花は再び机にかじりつく。
彼女の健闘を祈りつつ、改めて教科書に目を落とす哲矢であったが……。
「フフフッ」
不気味な声にハッと体が反応する。
すぐに声のした方へ顔を向けると、これまで空席だった哲矢の右隣の席に見たことのない男子生徒が座っていた。
(……今まで休んでいた生徒か?)
一回り小さい制服を着ているのか、彼が羽織るブレザーははち切れんばかりにパンパンだ。
ずんぐりむっくりな体型が強調され、制服に合っていないのが明らかだ。
だが、彼はそんなことなど気にする様子もなく、センター分けにした長髪をナルシシスティックにかき分けている。
「フハハハッ」
何がおかしいのだろうか。
男子生徒は一人高笑いを続けている。
けれども、周りの生徒はそんな彼のことを気にするような素振りを見せない。
近くで座る花でさえ、それが日常の一部であるかのように後ろを振り返ってくることはなかった。
(……なんだ、こいつ……?)
長髪の男子はそれから何を思ったのか、机の横に置かれたギターケースからアコースティックギターを取り出すと、弦を弾いて哀愁を帯びた鼻歌を歌い始める。
フォークソングというやつだ。
デジタルミュージックが全盛の今、このような曲を好んで聴いている若者は絶滅危惧種に違いない。
彼の存在は哲矢とは違った意味でクラスの中にあって異質であった。
得体の知れない鼻歌が教室に小さく響き渡るも、誰もそのことを気にしようとしない。
それで哲矢の態度も決まった。
(うん、関わらないようにしよう)
哲矢は心にサッとカーテンをかけると、教科書を開いて予習の続きに没頭していくのであった。




