第420話 ずっと忘れない
実際には一瞬のことでも、その時間は永遠とも思えるくらい哲矢には長く感じられた。
手が徐々に汗ばんでくる。
正面口を行き交う人々の姿を気にしている余裕は今の哲矢にはなかった。
やがて……メイの小さな口が開く。
けれど、それは哲矢が望んでいた返答ではなかった。
「――それって、どういう意味?」
彼女は小首を傾げるようにしてそう平坦に訊ねてくる。
その表情に悪意は感じられない。
それが分かって哲矢は混乱してしまう。
「えっ? いや、えっと……」
どうやらメイに想いは届いていないようであった。
もっと、はっきりと言わなければ伝わらないのかもしれない、と哲矢はとっさに思う。
(大丈夫……気持ちはきっと同じはずだから)
あとは、それを口にする勇気が自分にあれば――。
だが、そんな哲矢の思いとは裏腹に、言葉はまったく見当外れのカーブを描いて放出されてしまう。
まるで、予定調和を起こして元に戻るみたいに、哲矢は普段の憎まれ口を叩いてしまうのだった。
「お……お前の声って迫力あるじゃん? ドス利いてるっていうか。だからさ、もっと大声で呼びかけてくれたら、今度こそ立ち止まれるって思ったんだよ」
「ハァ? なに? 意味分かんないんだけど。まさかケンカ売ろうとしてるわけ?」
「ほ、ほらっ! それそれ! すげぇ~怖いじゃん!」
「……ホント、ムカつく」
「んははっ! けどまあ、あんまムキになるなってー。怒ってばっかいると顔のシワも多くなるぞ」
「まったくもって笑えないわ。あんた、どれだけ人に失礼なこと言ってるか自覚ある?」
哲矢がなおもふざけていると、メイは怒って再びそっぽを向いてしまう。
どうしてだろうか。
〝最後〟と意識しているためか、どうしても誤魔化してしまうのだ。
だが、メイとの関係はこれくらいが一番居心地がいいと考えている自分がいることにも哲矢は気づいていた。
(……ふぅ……)
ふと、全身の力がスッと抜けるのを哲矢は感じた。
この場に来て急に気取ったところで、これまでの関係ががらりと変わるわけではない。
メイとの仲はもっとフランクだったはず、ということを哲矢は思い出す。
(最後だからとか……そんな風に気負うのは止めようぜ)
そう思うと、言葉はさらりと溢れ出てきた。
「でも、帰る前に藤野が目を覚ましてよかったよなー。傍には花も将人もいるし。あとのことは安心だな」
「……まあ、そうね」
「明日には日本を発つんだろ?」
「ええ、朝に羽田から。そっちは?」
「なんか親が今日の夕方頃には宿舎まで車で迎えに来るみたいなんだ。過保護つーか。地元なら電車と新幹線乗り継いで一人でも帰れるのに」
「あまり強がらない方がいいわよ。あんた、都会に出てくるのも今回が初めてだったんでしょ?」
「そーいうお前だって、海外は初めてだったんだろ?」
「あのね。飛行機乗ってわざわざ日本までやって来た私と張り合おうとしないでくれる? あんたなんかどうせ海外も行ったことないんでしょ」
「……う、うるせー」
「ちょっとしたことで見栄を張るのがテツヤの悪い癖ね。ふふふっ」
いつの間にか自然な会話が二人の間に生まれていた。
この10日ばかりの間、こうしてこんな他愛のない会話を何度も繰り返してきたのだ。
それに気づいた瞬間――。
(……っ)
哲矢の中に突然寂しさのようなものが込み上げてくる。
気負うのは止めようと思っていても、どうしても意識しないわけにはいかなかった。
そうした感情を誤魔化すため、哲矢はさらに努めて明るい口調で会話を続ける。
「この病院も何度も来たよな」
「徒歩でもバスでも来ることができるくらいにね」
「だいぶ道も覚えたしな。このニュータウンの大体の場所には行けるし」
「……そう、ね」
哲矢の感傷的な態度が伝染したのかもしれない。
メイはふと明後日の方向へ顔を逸らす。
釣られて哲矢も視線を動かした。
正面口から待合ロビーを覗けば、そこは日曜日にもかかわらず大勢の人の姿で溢れていた。
一週間前にも見た光景だ。
それだけこの病院は地元の人たちの生活に根づいているのだろう、と哲矢は思った。
入口の坂に目を向ければ、青々とした葉桜が最後の春を謳歌するようにずらりと並んでいるのが見える。
あれも少し前までは満開の桜の木だったのだ。
瞼を閉じれば、艶やかなピンク色に彩られた桜ヶ丘ニュータウンの景色が甦ってくる。
この街で過ごしてきた日々。
そんなものが走馬灯にように一瞬にして哲矢の脳裏を駆け抜けていった。
――離れたくない。
そんな本音を口にすることは罪なことなのだろうか。
哲矢は、自身のセンチメンタルな感情を悟られないようにと必死になりながらメイとの会話を続けていた。
「けどさ。そっちはいいな。三週間くらいは休みがあったんだろ? スプリングブレイクだっけ? さすがアメリカって感じで羨ましいぜ」
哲矢としては、感傷的な気持ちを誤魔化すためのほんの世間話のつもりであった。
しかし――。
「…………」
メイは薄く下唇を噛むと、神妙な顔つきで黙り込んでしまう。
また、不用意に何か気に障るような発言をしてしまっただろうか。
最後かもしれないという思いもあってか、哲矢はメイの些細な変化にも反応してしまう。
そのまま辛抱強く待っていると、やがて彼女は小さく言葉を零す。
どこか自身の深いところと向き合うように、静かにこう続けるのだった。




