第200話 哲矢サイド-25
その先は土管のような構造をしていた。
廊下まで降りた鉄梯子は簡易部分でしかなかったらしく、その上にはさらに本格的な梯子が続いているようであった。
気分は鉱員そのものである。
下階から差し込む明かりは、登りを進める毎に照度を失っていった。
また、周囲の気温もぐんっと下がっていることに哲矢は気づく。
どこかで鳴る〝ヴォンッヴォンッ″という唸りが恐怖を掻き立て、哲矢から正常な思考を奪っていく。
一手ずつ掴む手すりの感触だけが今の哲矢に居場所を与えていた。
それからも懸命に腕を振り上げ、哲矢は高みを目指し続けた。
もはや、下からの明かりは消え失せ、完全な暗闇が辺りを支配し始めていた。
コツ、コツ、コツ……と、響く靴音だけに意識を集中させる。
そうしないと腹の底から沸き起こる疑問を吐瀉してしまいそうだったのだ。
〝なぜ自分はこんな場所にいるのか〟
〝大貴は本当にここを登ったのか〟
闇に身を浸し過ぎたせいだろう。
面白いことに先ほどまで抱いていた確信は萎れた草木のようにグニャリと折れ曲がってしまっていた。
(やっぱり、見間違いだったのかもしれない……)
まともに考えれば、こんなところを大貴が登ったはずがないのだ。
今からでも引き返せる、と哲矢は思った。
このままどこまで続くか分からない梯子を登り続けるより、引き返した方が精神的にもまだ楽だと言える。
そうだと分かっているにもかかわらず、哲矢の腕は更なる高みを目指してしまう。
「はぁ、はぁっ……」
段々と息が上がり始める。
管内に残る酸素は登るたびに薄まっていくように哲矢には感じられた。
湿った嫌な匂いが先ほどから鼻孔を刺激し、哲矢の頭はズキズキと痛んだ。
(早く……早くっ……!)
頭の中では呪文のような言葉が延々と繰り返される。
上腕二頭筋に蓄積された筋肉は熱を帯びて悲鳴を上げていたが、まだ耐えられないほどではない。
それよりも哲矢が最も恐れていたのは、精神が打ち砕かれて登る気力が削がれることにあった。
一体この先に何があるのだろうか。
上を見上げてもゴールは見えない。
目的地を確かめずに登り始めた手前、哲矢は計り知れないほど心細かった。
そんな中でも哲矢の行動を支えていたのは、僅かに残された己を信じる気持ちにあった。
そして、ついに緊迫した糸がぷつんと切れる。
(――っん?)
その時、哲矢の指先に何かが触れた。
暗くて周りはよく見えない。
ただ、伸ばすべき次の手すりが存在しないことだけは辛うじて理解できた。
(終わり?)
けれどそれにしては何かが変だ、と哲矢は思う。
頭上に出口はなく、人為的な圧を感じるだけだ。
もう一度手を伸ばして哲矢は伝わる感触を精査しようと試みる。
ひんやりとした何かが再び指先に触れた。
それで、哲矢は自分の置かれている状況をようやく理解する。
(……っ、閉じ込められてるんだ……)
そうと分かれば、あとは障害物を除くだけであった。
「……ぐぐっ……」
だが、頭上に覆い塞がるそれを何度押し上げようと力を込めてみても、人の力では到底歯が立たないようにと設置された重石に封印でもされたみたいにビクともしない。
「くっ……そぉッ……!」
思い通りにならない苛立ちから哲矢は無意識のうちに汚い言葉を口にしていた。
その声は筒状の空間を振動させて遥か下方の廊下にまで届く。
真っ暗闇の不安も相まって、一体何をしているのかと自分を見失いそうになる哲矢であったが、手を離せば一巻の終わりであることだけは反響する声のディレイから理解することができた。
つまり、行き詰まりなのだ。
しかし――。
この段階になっても哲矢の闘志は折れていなかった。
(自分で選んでここまで来たんだ)
そのことが哲矢に冷静さを取り戻させる。
(大丈夫、落ち着け……)
そう何度か心の中で復唱すると、気持ちは次第に軽くなっていく。
そして、問題はその後の体験にあった。
ちょっと口では説明できないほどの奇怪さがあったのだ。
ただ〝そうだった〟としか、哲矢には言えない。
あれほど退けるのが不可能に思えた障害物は、哲矢がほんの力を込めるだけで動く。
まるで、ひよこが孵化して内側から殻を破るように、哲矢をぐるぐるに縛りつけていた鬱屈さは退いて、後には現実だけがそこに残った。
ひんやりと冷たい上蓋を押し退けると、眩しい光が哲矢の目に飛び込んでくる。
「うっ……!」
声を上げるのを我慢できないほどの強烈な光だ。
よくモグラが地上に顔を出すと体の内側から火傷するように衰弱してしまうと耳にするが、今の哲矢の気持ちはまさしくそれであった。
ほんの一瞬の体験がトラウマの如く哲矢に苦虫を噛み潰した思いを抱かせる。
巣穴から警戒して出られないプレーリードッグよろしく、哲矢は目を慣らすのに少しの時間が必要であった。
やがて、ゆっくりと額に手をかざして天を仰げば、そこには澄み切った春の空が広がっていた。
長閑な空気が哲矢の肺に流れ込んでくる。
そうして陽の光を浴びていると、体は徐々に順応していく。
「よしっ……」
本来の自分を取り戻した哲矢は、そこでようやく安堵の息を漏らすのであった。




