第199話 哲矢サイド-24
当然、外にはすでに大貴の姿はなかった。
ただ見慣れたテラゾーの無機質な廊下がエレベーターホールまで真っ直ぐに続いているだけだ。
それは暗に彼の行き先が一つしかないことを告げていた。
すぐさま消失点に顔を向ける哲矢であったが、タイミングが悪いことにその扉はちょうど閉まるところであった。
大貴の小さな背中が一瞬見える。
「あっ……!」
僅差で大貴を取り逃がしてしまったと焦る哲矢は、エレベーターホールまで慌てて駆けつける。
しかし、その距離を詰めるに従って哲矢はある違和感を抱いた。
(あ、あれ……?)
遠目から辛うじて視認できる位置表示器は〝21〟を示したまま静止していたのだ。
その後、すぐさまかご室の扉を開いてみるが、中は無人であった。
大貴は忽然とかご室から姿を消してしまっていた。
何度、哲矢が振り返ってみても市長室からエレベーターホールまでの道筋は変わらない。
一本道だ。
途端に疲労がどっと哲矢に押し寄せる。
思わぬ試練の到来に、張り詰めた緊張の糸はだらしなく垂れ下がった。
これからどうするべきか。
哲矢は岐路に立たされていた。
今からあの息が詰まる応接間に戻ることは考えられない。
ならば、残された選択肢は二つだ、と哲矢は考える。
このまま大貴の行方を探すか、諦めて宝野学園へと戻るか。
立会演説会に大貴を連れて来るという当初の目的はすでにほとんど達成されている。
わざわざ手を引いて彼を連れて来なくても、おそらくあの調子なら大貴は体育館に現れるに違いなかった。
もちろん、彼を直接学園へ連れて来られたらそれは一番ベストだが、タイムリミットの関係もある。
一刻も早く花と合流して、情報の共有に努めた方が賢明かもしれなかった。
(……学園に向かうか)
結論はすんなりと出された。
哲矢が降下ボタンを押すと扉はすぐに開く。
その瞬間、市庁舎を後にするんだという実感が込み上げてきて哲矢の胸を騒がせる。
まだ、若干の迷いがあった。
それを振り払うように強引に足を前に突き出す哲矢だったが、今度は強烈な疲労が体の自由を奪う大波のように轟轟と押し寄せてくる。
(ぁっ……)
そう思った時にはすべてが遅かった。
情けないことに、哲矢は前のめりの体勢でその場に転げてしまう。
こんな経験は生まれて初めてのことだ。
ドンッと体が床にぶつかる音が痛みと共に鼓膜へと鳴り響くが、そんなことよりも哲矢が悔しかったのは昨日から溜まった疲労を言い訳にはっきりとした決断を下せない自分の弱さにあった。
すっかり忘れていた脇腹や頬の痛みも思い出してしまう。
「……うぅっ……」
天井の蛍光灯を見上げる形で仰向けになると、哲矢はいつの間にか熱い涙を流していた。
まるで、幼い日に戻ったようであった。
よくこうして悔し涙を一人で流していたことを哲矢は鮮明に思い出す。
何者でもなかった頃――。
哲矢は、自己主張するタイプの子供ではなかった。
集団の後を少し遅れ追うような誰からも頼りにされない存在であった。
誰かと一緒にいるよりも一人でいることを好んだ。
その方が哲矢にとっては居心地がよかったのだ。
だから、昔の自分を知る人間が今の奮闘を目にすれば、きっと〝嘘だ〟と口を揃えるに違いない、と哲矢は思う。
もちろん、そのきっかけははっきりとしている。
これまでの冴えない人生に突如劇的な変化をもたらしたもの。
(……少年調査官、か……)
初めはそんな大げさに考えてはいなかった。
ちょっとした合宿に行って帰ってくるくらいのつもりだったのだ。
だが、実際はその世界に足を一歩踏み入れると、まるで硬い岩か何かで頭をガツンと強打されたような衝撃が待ち受けていた。
血の味のする毎日。
それは、哲矢にとって生き心地を感じる日々となった。
この一週間ばかり日を追うごとに考えや感覚は研ぎ澄まされていった気がする、と哲矢はかご室の天井を見上げながら思う。
過去の自分からは想像もつかないようなスケールの出来ごとが待ち受けていたのだ。
そんなことを哲矢が考えていると――。
(……?)
哲矢の視界は妙な違和感を捉える。
その正体を探るために涙を拭いてさらにそこを覗き見ると、それはやがて確かな輪郭を帯びていく。
(なんか光ってる……?)
それが天井に備え付けられた避難ハッチの銀縁であることに気づくまでそう時間はかからない。
「マジかよ……」
そう声を上げずにはいられなかった。
ハッチの下蓋が僅かに開いているのだ。
哲矢は飛び跳ねるようにして体を叩き起こす。
血の巡りが活性化していくのが分かる。
手も足もまるで細胞が更新されたように自由に動かすことができた。
今まで気づかなかったことが不思議なくらい物ごとが判然としていく。
乗った時は気づかなかったが、足元には白い引っ掛け棒が落ちていた。
これで条件は揃った、と哲矢は思う。
(避難ハッチを使って上に登ったんだ……)
飛躍し過ぎかと一瞬考えをセーブしそうになる哲矢であったが、これくらいの柔軟性を持たなければ大貴に追いつくことは不可能だと考えを改める。
あとは反射的に体が動いた。
哲矢は、転がったままの引っ掛け棒を手に取ると、ハッチのフック目がけてそれを掛け、重力に付き従うよう引っ張り降ろす。
すると、下蓋は完全に開き、中から鉄梯子が現れた。
それは、言いつけを守る賢い盲導犬のようにそのまま垂直に床すれすれまで落下すると、人が登れる形へと変貌を遂げる。
嘘みたいに出来過ぎた光景であった。
その鉄梯子を正面に眺め、哲矢は去来する心の内と葛藤する。
もちろん、迷いはあった。
謎を解くまではよかったが、いざ答え合わせをしようとなると途端に心細くなってしまう。
(本当にこれを登るのか?)
天を仰ぎ見るとぽっかりと空いた穴の先は、何層も執拗に絵具の黒で塗り固めたような暗闇がどこまでも続いていた。
花との約束が哲矢の頭を過る。
このまま登ってしまえば、到着はぎりぎりとなる可能性があった。
冷静に判断するなら、このような手段を取った大貴の思考回路をまず疑うべきである。
(付き合う必要はないよな……)
そう思う一方でハッチの奥へ続く漆黒を見上げていると、影が吸い寄せられていくような感覚に哲矢は陥る。
気づけば、哲矢は無意識のうちに鉄梯子に手をかけていた。
そうするつもりはないのに、腕は高みを求めて哲矢は渇望を止めることができない。
まるで、闇の中へと手招をされているような気分であった。
そして、哲矢は、いつの時も自身を突き動かすのは内から湯水の如く湧き出る好奇心であることに気がつく。
(……分かったよ)
観念すると、哲矢は今度こそ自らの意思で鉄梯子を登っていくのであった。




