第193話 哲矢サイド-18
その後、大貴の向かった先はやはり市庁舎であった。
本日何度目かとなる職員通用路を通って、哲矢は彼と一緒にエントランスへと向かう。
守衛室の前で再度入庁証明のホルダーを受け取った際、カウンターに出てきた高年の警備員は、行ったり来たりする大貴の行動にも慣れているのか、笑顔で対応してくる。
「山北さんなら先に行きましたよー」
「おっ、マジすか。ういーっす!」
陽気に手を振る大貴の後に続いて哲矢が思うのは、また聞き覚えのない名前を耳にしたことに対する疎外感であった。
(ユリさんに、山北さん……?)
けれど、今回はエントランスに足を踏み入れたところで哲矢の憂いは蓄積されることなく断ち切られることとなる。
その名前に該当する人物が目の前に姿を現したのだ。
「……随分と遅かったのですね。用件は済みましたか?」
そう皮肉を込めて小腹を立てるのは、おそらく山北と呼ばれる例の秘書官であった。
彼女は、エレベーターが立ち並ぶホールの中央で仁王立ちのまま陣取り、哲矢たちが入ってくるのを待ち構えていた。
自身がフォーマルなスーツに身を包んでいることを完全に忘れてしまっているのか、大胆にも脚を開き、ヒールを床に突き立てて凄みを利かせてくる。
腕を組んでふくれっ面に目を細める彼女の態度は、門番として通過する者を黙らせる無言の圧があった。
(ま、怒って当然だよな)
哲矢はそんな彼女に対して少し同情する。
秘書官の女――山北には、大貴を了汰の元へ連れていくという責務があるに違いない、と哲矢は思う。
随所に現れ、大貴に指示を出すのはそのためだろう。
大貴が道草を食って時間を失うことは彼女の責任となるはずであった。
しかし、当の本人は山北の思いなどお構いなしの様子で、まるで悪びれることなく冷めた口調で言葉を返す。
「関係ねーだろ」
「……関係ない、ですか」
山北が軽く咳払いをすると、再び一触即発の空気ができる。
まるで、議事堂での延長戦を見させられているような気分であった。
二人の心音を間近で感じ取ることができる距離にいる哲矢にとっては他人ごとではない。
(おいおい……)
この張り詰めた緊張の下では、先ほどの大貴の大胆な行動にも期待することができず、ここは第三者である自分が仲裁に入るべきではないか、と哲矢は考えを巡らせる。
両者譲らぬ平行線は恒久的なものかと思われたが、最終的には大人である山北が折れる形で事態は収束する。
彼女は一度呼吸を整えると、投了の合図を口にした。
「……分かりました。これ以上はなにもお訊ねしませんが、急いでいただけませんか。予定の時刻を過ぎております」
ちょうどそのタイミングで1台のエレベーターが扉を開く。
山北は大貴の反応を確認することなく、素早い身のこなしでかご室の中へと乗り込む。
エントランスに響くヒールの音が催促しているようで、計算し尽くされた牽制に哲矢はただただ感服するほかなかった。
「相変わらず、怒らすと怖えーなあんたは」
「ありがとうございます大貴様。誉め言葉と受け取っておきます」
「それが怖えーんだって、ヘヘッ」
さすがに大貴もこれ以上反抗することは得策ではないと分かったのか。
ヘラヘラと態度を豹変させると、腕を頭の後ろに組みながらかご室へと乗るのだった。
どこかおちゃらけた光景。
けれど、それは哲矢にとって微笑ましい一場面としては映らなかった。
どこか、作り物めいた雰囲気が引っかかったのだ。
(だって、緊張感は本物だったぞ)
手の平に残る汗を哲矢は強く握り締める。
(そういえば、さっきも……)
哲矢は先ほどのことを思い出す。
石段の途中で熱心に議事堂の外壁を見上げる大貴。
重厚な歴史の懐に抱かれるように、その表情はとても静かで落ち着いていた。
だが、その後に鋭い目つきで声をかけてくる彼はやはり別人のようであった。
転々とする態度と表情。
どれが本物の彼なのか。
そこには、観客の注意を引くためにステージで仮面を使い分ける道化師のパフォーマンスのような要素が含まれている気がしてならなかった。
(そうか)
その瞬間、哲矢は自身の中で凝り固まっていた何かがゆっくりと融解していくのが分かる。
(作り物……道化師……パフォーマンス……)
それらの言葉を並べてようやく大貴の実像がぼんやりと浮び上がってくる。
(たとえばさっきの質問……)
哲矢は大貴が熱弁を振るった桜ヶ丘市の現状を憂う問いを思い出していた。
〝お前はこの現状を見てどう感じた?〟
いくら本会議を覗いたからといって、哲矢はまだこの街に通い始めて一週間しか経っていないのだ。
もちろん、大貴もその辺のことは分かっているはずである。
ではなぜ、そんな質問を投げかけてきたのか。
大貴の真意を哲矢は読み解こうと試みる。
これまでの言動の中に必ずヒントが隠されているはずなのだ。
(……なにか誤魔化すため?)
ふと、そんな考えが哲矢の脳裏に浮かんでくる。
(つまり、フェイクとしてあえて難しい話を折り込んだ?)
憶測の範囲を出なかったが、少なくとも理には適っているように思えた。
すると、問題になるのは隠れ蓑の恩恵を受けた本音の部分にある。
引き続き何度か記憶のテープを巻き戻していくと、哲矢はある重要な台詞を思い出す。
(そうだ、さっきユリさんがどうのって……)
知らない名前だったので気に留めていなかったが、話の流れから察するにその人物はあの受付事務の女である可能性が高い、と哲矢は思った。
仮に彼女のことを指しているのだとすれば、大貴の口からその名前が出てくる理由は一つしかない。
(会話を聞かれてたんだ)
山北と口論した後、てっきり議事堂の外に出たとばかり思っていたが、実際は少しの間1階に残っていたのかもしれない。
秘書官の催促を振り切って議事堂に留まる理由はさらに限定される。
ユリと呼ばれる受付事務の女に用があったのか、もしくは――。
(……俺を待っていた?)
しかし、傍聴室で大貴は確かに〝もう帰れ〟と口にした。
だから、哲矢は彼の目的は果たされたのだとばかり考えていた。
石段で見かけたのは偶然で、成り行きで市庁舎へと戻ることになったが、今となってはそれも怪しい。
大貴の思惑によって仕組まれていた可能性が十分に考えられた。
別れ際に見せた突き放つ態度も計算された上でのパフォーマンスだとすれば、大貴が議事堂の外で待ち伏せしていたとしても不思議ではない。
多分、これらの行動を悟られないように、わざとナイーブな話を選んで煙に巻こうとしたのだろう、と哲矢は直感する。
思い返せば、こうした不可解な言動はこの半日にも満たない短い時間の中で何度か見受けられるような気がした。
例えるなら、それは障害物リレーのハードルだ。
初めは飛び越えるのが困難な高さの物を用意してあえて事態を誇張させて見せるが、最終的にはそれを越える手助けをして道を示してくれる。
そんな度量の広さが大貴の中に含まれているような気がするのだ。
(けど……それが分かったからって、一体なにになるっていうんだ?)
この推察をする上で一番問題となるのは、大貴の目的がまったく読めない点にあった。
もしこの仮定が当たっていたとして、ここまで大貴が回りくどくなる理由は何なのだろうか、と哲矢は思う。
大貴のパーソナルな部分に迫る以上、これは極めて重要な意味を持つことは理解できていたが、核心へと辿る前に現実の声が邪魔をして立ち行きができなくなってしまう。
「おい」
ハッと哲矢が意識を戻すと、かご室の中で手を挙げている大貴の姿が哲矢の目に飛び込んでくる。
「なにしてんだよ。早く乗れ」
そう口にする彼の隣りにはこちらを睨みつけてくる山北の姿があった。
吸い寄せられるように彼女に目を向けると、今度は先ほどまで気づかなかった密かな感情が哲矢の体内へと流れ込んでくる。
その瞳は〝帰れ〟と訴えかけているように哲矢には見えた。
議事堂で目配せしたのもそうした意味が込められていたのだろう。
しかし、訴えかけている内容はそれだけではない。
そこにあるのは純粋な拒絶――。
(……なるほどね)
何かが一つに繋がる感覚があった。
それを確かめたくて、哲矢は山北の思いを無視して足を一歩前へと踏み出す。
すると、秘書官の顔はみるみるうちに曇っていく。
だが、哲矢はここで帰るつもりはなかった。
〝最後まで責任を持って付き合え〟
その言葉が哲矢の背中を押していたのだ。
(悪いけど、あと少しなんだ)
哲矢は湧き上がる感情を抑えつつ、それを悟られまいと反発し合う斥力の空間へ静かに身を忍ばせるのだった。




