第171話 メイサイド-5
「暁少年鑑別局までお願い」
「市外だねぇ。えっと、どの辺にあったっけなぁ……」
メイが乗車したタクシーの運転手は、40代半ばくらいの丸々と太った中年の男であった。
彼は助手席のグローブボックスから東京郊外の分厚い道路地図を取り出すと、ぱらぱらと器用にページをめくり始める。
後部座席から運転席に目を向けると、その膨れ上がった腹がシートベルトに食い込むさまが見て取れた。
「あーあ。はいはい。工学院の近くね。ちょっと離れてるけど大丈夫?」
今度は振り向きながら、真っ赤な鼻を鳴らして運転手は話しかけてくる。
制服姿で乗り込んだため、金銭面の心配をしているのだろうか。
もしくは、警察署から乗り込んで少年鑑別局を目的地に指定したため、複雑な事情を考慮してそう訊いてきたのかもしれなかった。
男の意図は分からなかったが、あれこれと探られるのも面倒だったので、メイはすぐに首を縦に振って車の発進を促す。
「あいあい。そいじゃ行きますねぇ」
運転手は荒っぽくハンドルを切ると、エンジンを吹かしながら署の駐車場を後にするのだった。
◇
しばらく進むと、車は朝の通勤渋滞に巻き込まれてしまう。
「…………」
なるべく運転手とは会話をしたくなかったので、メイは窓から流れる景色だけを目で追っていたが、バックミラー越しにチラチラと覗き見る視線が気になって集中することができずにいた。
メイがあからさまに不機嫌そうな顔を浮かべても、男の好奇心が途絶えることはなかったようだ。
運転手はハンドルに右手を置きながら大声で言葉を投げかけてくる。
「いや~ね、この道ね。いつも混むんだよ。なるべく裏道使ってるんだけどさ」
おそらく、生まれ持ってのおしゃべりなのだろう、とメイは思った。
人懐っこく笑う口元を見れば、悪人ではないことがすぐに分かる。
「田舎でしょ? ンハハッ。この辺りだと車使うことが多いからねぇ。朝はどこも混むんだ」
男はメイが地元の人間ではないことを瞬時に見抜いていたようだ。
ブロンドの髪や目立つ外見がそう判断させたのかもしれない。
実は、それはメイにとって日本に来てからのコンプレックスでもあった。
メイは後ろ髪を払いのけて眉間に皺を寄せながら一層外に注意を向ける。
だが、それで運転手の話が終わることはなかった。
出会い頭の気遣いなどとうの昔に忘れてしまったかのように男は無遠慮に詮索し始める。
「この時間に警察署でお嬢さんを乗せることなんて初めてだからさぁ。珍しくてね。俺も昔は色々やったからさぁ。分かるなあー」
タバコで汚れた黄ばんだ歯を覗かせながら、親身に微笑む男の顔をメイは強く睨みつけるのだったが、やはりそれが通用するような相手ではなかったらしい。
逆にそれを肯定的に受け取ったのか、男はさらに大きな声を上げて「若いって素晴らしいねー」と誇らしげに笑うのだった。
それからしばらく経っても、車の進行速度は相変わらずだった。
カーオーディオからは周りの景観に不釣り合いなハワイアンミュージックが流れている。
中年の運転手はぽっこりと出た腹を擦りながら、その間も一人で楽しそうに意味のない話を延々としゃべり続けていた。
(付き合いきれないわ……)
メイは改めて大きなため息をつくと、一度センターコンソールのデジタル時計に目を移す。
時刻は8時15分を指していた。
警察署を出発してからかれこれ30分近くが経過しようとしていた。
別に遅く着いたからといって将人が逃げるわけではなかったが、何もできずにいるこの状況にメイは徐々に焦りを募らせていく。
「……あ」
そんな風に考えていると、メイは突然哲矢と花のことを思い出す。
(そうだわ! なにやってんのよ、私っ……!)
美羽子から受け取ったスマートフォンをスカートのポケットから素早く取り出すと、メイは慌てて画面をスワイプする。
「ちょっと電話するから黙ってて!」
その鬼気迫るメイの口調に男は何を勘違いしたのか。
ニカッと満面の笑みをバックミラー越しに零すと、「いや~若いっていいねぇ。どうぞどうぞ、ごゆっくり」と嫌らしい口調で頷くのだった。
二人の連絡先は緊急時のために暗記していたのでメイはすぐにそれを思い出すことができた。
ひとまず、哲矢の電話番号から先にコールを鳴らしてみるが、案の定不通の音声が返ってくるだけであった。
(ま、盗まれたのだから当然よね)
哲矢の無事を祈りつつ、今度は花に電話をかけてみることにする。
しばらくコール音が続いたのち、『も、もしもし……』と怯え口調の若い女の声が返ってくるのであった。
その声を聞いた瞬間、メイの脳裏には相手の顔が鮮明に浮かんだ。
自信なさげな言葉尻。
震え混じりの女の子らしい声。
少しこもって聞こえるが、電話の相手は花で間違いないようであった。
その伝わる愛嬌が懐かしく、メイはつい花をからかってしまう。
『も、もしも~し……』
おっかなびっくりにこちらの出方を窺う彼女に対してメイは暫し無言を貫く。
からかい甲斐があるのだ。
母性本能をくすぐられてしまう。
それでも花は電話を切らず、じっと黙って返事が来ることを信じている様子だ。
(ほんとこういうところは真面目っていうか)
彼女のマメな性格に感心しつつ、しばらくその静寂に身を浸すメイであったが、途中からこんなことをしている自分が馬鹿らしく感じられて思わず噴き出してしまう。
「……ぷっ、あははっ~! 負けたわっ♪」
『は、はい……?』
普通なら怒ってもおかしくない場面だ。
だが、花はまだこちらの正体に気づいていないようで、律儀に受け答えを続けようとしていた。
『ど、どちら様でしょうか……?』
さすがに悪乗りを重ね過ぎたかもしれない、とメイは反省する。
種明かしをするようにおどけた声を装ってその問いに答えを返す。
「ごめんごめん。ハナの言動が面白くて……ついね」
『……えっ?』
一瞬の間があった。
脳内に蓄積された人物のデータを照合しているのだろうか。
すぐに明るい声が返ってくる。
『もしかしてメイちゃんっ!?』
「あたり」
『無事だったんだっ!!』
それは、本当に心の底から喜びを噛み締めている声であった。
こういう時、言霊には魂が宿る。
また、まさかこのタイミングで連絡があるとは思っていなかったという理由もあるのだろう。
驚きと喜びは倍に膨れ上がっている様子だ。
逆にこちらが照れ臭くなるほどの嬉々とした態度にメイの表情にも自然と笑みが零れる。
だが、下世話な運転手の視線がどうしても気になり、メイはそれを誤魔化すように咳払いをすると、平常を装って淡白に言葉を続けるのだった。
「大げさよ。べつに大したことなかったんだから」
『メイちゃん……ありがとう……』
こんな時でも素直になれない自分がメイは嫌いであったが、嬉しそうに話す花に釣られて負の感情はいつの間にかどこか遠くへ吹き飛んでしまったようであった。




