第164話 花サイド-13 / 花の過去 その2
〝空間を把握する力が素晴らしい〟
郵送されてきた賞状と一緒に添えられていた言葉だ。
葉書の裏面には、展覧会の案内が記されていた。
以来、母親はその才能に大きく惚れ込み、全力で花の身辺をサポートするようになる。
高級書道用具の準備。
競書誌や古典の断片収集。
遠方の実力派書道教室への送り迎え。
花は、そうした助けを受けて習字三昧の日々を送ることとなる。
母の顔つきは穏やかになり、どこか安心したように生き生きとし始めたのが印象的であった。
才能ある娘を支える母親。
そう周りから見られることで母のステータスは完成されたのだろう。
子供ながらに花はそんなことを思った。
嫌な感じはしなかった。
むしろ、母の笑顔が増えたことで、純粋に嬉しい気持ちの方が勝っていた。
それから書道の世界に足を踏み入れて分かったのは、花が〝教育長賞〟を受賞した書道展は、市の学生書道家たちの間で登竜門と目される権威ある展覧会であった、ということだった。
また偶然にも、花が住む街は平安時代に生まれた書家のもとに繁栄したと言われる地域で、書に関する取り組みが盛んに行われていた。
そのため市内では、老若男女問わず、執筆に励む者が多い。
今まで特に意識せずに過ごしてきたので気づかなかったが、言われてみるとこうした背景は幼い頃から花の周囲に溢れていた。
無意識のうちに書と触れてきたことも花の才能が芽生える要因だったのかもしれない。
当然、登竜門を潜り抜けた花は、書道教室でも一目置かれる存在となる。
それは花にとって、他者よりも優位に立つ初めての経験であった。
周りの持ち上げも相まって、花は過剰な自意識を育てていくことになる。
しかし、世界は花が思っている以上に広かった。
中学に上がると同じような才能を持ったライバルたちが次々と現れるの。
それは、この街が書に力を入れていることと決して無関係ではなかった。
この地域だからこそ、才能は誕生しやすいのだ。
花は、その一人一人と勝負し、勝ち進んでいけるほどの器用さを残念ながら持ち合わせていなかった。
やがて、展覧会やコンクールに作品を提出しても、あと一歩のところで受賞に至らないケースが増えた。
習字自体は楽しかったし、続けていきたかった。
それは、花が見つけた唯一の自分らしい生き方だったのだから。
だが、この街でライバルたちと切磋琢磨している以上、常に結果は求められて、どうしても過去と比較されてしまう。
それは、花の新たな重荷となっていた。
高校進学を意識し始めたある日。
花は思い切って今の気持ちを母親にぶつけた。
大粒の涙を蓄え、声を震わせながら訴えたことを花は昨日のことのように覚えている。
こんなにも必死で母に何かを伝えたのは生まれて初めてのことであった。
この時ばかりは、母も責め立てることなく、親身に話を聞いてくれた。
いや……。
そもそも、彼女の気持ちは花が初めて賞を受け取ったあの日にきちんと完結していたのだ。
親としての名声を手にしたことで母の思いはすでに遂げられていたのである。
むしろ、今までこだわり続けてきたのは花の方であった。
この頃にはもう花の中で書道は、切っても切れないライフスタイルの一環となっていた。
たとえこの地を離れてでも書道を続けたい。
強かな計算は、熱意と捉えられ、花は母親から引っ越しの許可を得ることに成功する。
栄光の慰めとなる居場所が花には必要だった。
目星は付けていた。
その出会いは偶然で、たまたま夕方に見たニュースの特集であった。
〝書道ガール〟と呼ばれる女子高生たちの素顔に迫るというドキュメンタリータッチの内容だ。
(宝野学園?)
東京の外れにある創部間もないその書道部は、近年の書道パフォーマンス大会で優秀な成績を収めて話題となっているとのことであった。
大会の存在自体は知っていた。
だが、花はあえて情報を入れようとはしなかった。
〝静″を重んじる書道において、パフォーマンスは邪道だと思っていたからである。
しかし、テレビに映る彼女たちの姿を目で追っていると、書を志す者として興味を惹かれる部分があった。
大判の和紙に足をつけ、大筆を優雅に振るうその姿は花に新しい書道の形を印象づけた。
ちょうど、自信を失いかけていた時期と重なったのも大きな要因だったのかもしれない。
(ここなら、私も……)
そんな思いが自然と湧き起こる。
スタイルは180度異なるが、むしろその方が心機一転新しいスタートを切れる予感があった。
また、創部間もないという点も再びリードを取るチャンスに思えた。
そうした偶然がいくつか重なり、花は宝野学園へ次第に心奪われるようになる。
まずは母の許可を得ることが優先と考えた花は、予定通り彼女を説得させると、次に入学事項を調べるために宝野学園のホームページを閲覧する。
しかし、そこで思わぬ誤算にぶち当たることになる。
宝野学園は高等部からの入学を受け付けていなかったのだ。
全国ネットで放送していたにもかかわらず、限られた者しか入学することができないというのはなんだか皮肉に感じられたが、そんな暗澹たる状況に置かれても花は入学を諦めなかった。
今思い返してみても、なぜそこまで宝野学園に固執していたのか不思議でならなかったが、当時はそれだけ街から出ていくことに必死だったのだ、と花は結論づける。
あの日感じた焦りは古傷がじんじんと痛むように確かに花の胸の奥に存在していた。
花は、自己暗示に後押しされる勢いのまま、直接学園側と交渉する手段を掴む。
事務員と名乗る女が電話に出ると、花はその場で入学に対する思いや志望するに至った経緯などを感情に任せて吐き出していた。
当然、相手は電話越しからでも分かるくらい驚き困惑しているようであった。
それから、何度か保留を繰り返され、やがて責任者と思われる男が彼女の代わりに出る。
「……ゴホンッ」
男が嫌味な咳払いを一つ立てると、それまで花優位に流れていた空気が突如一変する。
積み上げてきたものを根こそぎ奪い取られるような……。
そんな感覚を花は肌で感じた。
だが、異変はそれきりだった。
彼は控えめな口調で「この学園の教頭をやっている」と身分を明かす。
先ほどとは、違った種類の緊張が場に走る。
完全に花の苦手なタイプであった。
何を考えているのか分からないのだ。
電話越しであるため、表情は窺い知ることはできなかったのだが、それを抜きにしてもまともに話せる相手だとは思えなかった。
女子中学生の手に負える範疇を越えているのだ。
母に代わろうかとも考えた花であったが、大見得切った手前、自力でなんとかしたいというのが本音だった。
どうすればいいか。
そう考えあぐねていると、男は花の沈黙を見透かしたように追い討ちをかけてくる。
「基本的にうちは高等部からの入学者をお断りしてます。ましてや、都外からの入学なんて前例がないんですよぉ」
話し言葉はあくまで丁重だったが、語尾は力強く、これから説教に移り変わってもおかしくない雰囲気があった。
もちろん、花も自分のしている行為が受験生のそれを大きく逸脱している、という自覚はあった。
宝野学園は市が運営している公立学校である。
都外からの受け入れ態勢は整っていないという話も当然であった。
(叱られるかな……)
重苦しい間が反省を呼びかけているようで、花は怒られる覚悟を決めた。
この時、感じた不安は今でも瞬時に思い出せる、と花は思う。
だが、その後に続く男の言葉は、実に飄々としたものであった。
先の言葉は、前置きに過ぎないということをアピールするように彼は話を続ける。
「……いやぁ、でもまぁ熱意は伝わりました。うちの書道部に入りたいわけですねぇ? 今回は例外的に願書を受け付けましょう」
まるで受話器を交代する前から結論を決めていたような締め括り方だった。
口調は依然として丁寧であったが、どこか打算のある嫌らしい口ぶりを花は見逃さなかった。
出願を認められたことを喜ぶ一方で、後味の悪い予感に花は薄気味の悪さを感じる。
礼を述べ電話を切ると、花は後日指定された方法で必要書類を宝野学園へ郵送するのだった。




