第162話 花サイド-11
翠のおかげで部屋の空気は元に戻りつつあった。
だが、花はその虚偽性に気づいている。
一見して通行可能に見える道も透明な壁に覆われたままだということを。
まだ肝心な問題が未解決なのだ。
なぜ、翠は局面を変えようと必死なのか。
その逆を考えれば、自然と答えは見えてくる。
(さっきまでの状況が異常だった?)
思い返そうとする花だったが、網膜に映る像は靄がかかったように不透明だ。
たった数分前の出来ごとが思い出せない。
記憶の断片に光るのは、自責の念と搾り出される謝罪の言葉。
目はじんじんと腫れて、喉には心なしか違和感がある。
それらの感覚が説くのはここが夢の中ではないということ。
全部、現実なのである。
この段階で花が取るべき行動は一つだ。
幸い、謝罪のために突いて出た言葉は覚えていた。
あとは、昨日の夜に起きたことをありのまま翠たちに話しておしまい。
それで後ろめたさともサヨナラできるはずであった。
(でも……)
何かが花の中で引っかかる。
(本当にそれで終わりなの?)
今まで深く考えなかったが、ここまで言葉を詰まらせるのには何か潜在的な理由があるのかもしれない、と花は思う。
臆する性格を差し引いても、心の核で巣食う何かがストッパーの役割りを果たしている可能性も十分に考えられた。
その正体が分かれば、打ち明ける気持ちの整理もつき易いはずだ。
突破口の存在を意識しつつも、醜態を演じたという気恥ずかしさが邪魔をして、花の舌先の呪いは解けない。
ここで誤った口火の切り方をすれば、復調した放送室の空気に水を差しかねない。
結局、螺旋の往来を繰り返しているに過ぎないことを花は遅ればせながら気づくのだった。
だからかもしれない。
そんな花の苦悩と沿ってきたからこそ、翠はこれ以上責め立てるような際どい台詞を吐くことはなかった。
そこには、彩夏たちに虐めを受けていた軟弱な男子生徒の姿はなかった。
本当の彼はとても頭の切れる少年だ。
クラスメイトは翠の謙虚さに騙され、そのことに気づいていない。
近くにいれば半日もしないうちにそれが分かる、と花は思う。
野庭と小菅ヶ谷が翠の側を離れない理由。
今なら花はそれが理解できるような気がした。
だから、次に翠からどんな言葉が飛んできても花は特別驚かなかった。
おそらく、先を見据えた上での発言に違いなかったからだ。
いつの間にか、翠は真面目な顔つきに戻っていた。
今日、幾度となく見てきた豊かな表情の使い分けだ。
それはとても絶妙で、過程を他者に披露しない辺りに巧者の貫禄を感じさせる。
彼の声色は明るさを継承したままだったが、話す内容は渦中へ寄せようとしているのが花には分かった。
重要なことを今から伝える、そんな前触れを花は確かに感じる。
「僕らが外に出てた理由はそんな感じかな。あとは……」
そうひとクッション挟むと、翠はテーブルの前で綺麗な体育座りを決めている女子二人に目配せをする。
何かの合図なのだろう。
彼女らは微かに頷くと、弾かれたように冷め切ってしまった湯のみを手分けしてトレイに乗せ始める。
それが片づくと、晩秋の夕暮れのようなスピードで放送室から姿を消してしまうのであった。
あとには、ほとんど手つかずのクッキーが積年の想いを募らせた落ち葉のように、しぶとく皿の上に残っていた。
ドアが完全に閉まるのを確認すると翠は花に向き直る。
「……実はもう一つ。理由があるんだ」
小さく刻む翠の言葉は、スッと体へ溶け込むように花には理解し易かった。
まるで、優秀なメンターと向き合っているような感覚だ。
今、この部屋には花と翠の二人しかいない。
心の鼓動さえ聞こえそうな距離。
だからだろうか。
到達できなかった過去を清算するように翠は恥部さえも曝け出す。
初めて真に迫る本音に花は決着が近いことを予感した。
「気持ちの整理がしたくってね。考えてみたんだ。僕たちは今なにをしようとしてるんだろうって」
口調は明るいままだったが、その中には微かな怒りの炎が含まれていた。
そして、それは外へ向けられたものではなく、内に向けられていることに花は気がつく。
ふと花が壁に掛けられた時計に目をやると、針は二時間目のちょうど中頃の10時15分を指していた。
カチ、カチ、カチと。
慎ましやかに響く針の音がやけに耳に残る。
それと同時に、花の隣りからは湿り気を失った心臓のうねりが聞こえてくる。
決して交わることのない二つの音。
その様子は、花に真っ暗で底が見えない夜の湖を連想させた。
翠はそこでボートから身を乗り出し、水面に映る自分の顔を眺めている。
本物を炙り出す鏡だ。
その顔は、何かを悔いるような表情へと変わっていった。
彼がぽつりと漏らすまで、花の意識は現実から大きく遠のいていく。
「謝り続ける川崎さんを見てたらさ。君を追い詰めたのは僕らだって……気づいたんだ」
「っ……」
その言葉は花にとって予想外のものであった。
後悔を感じているというよりも、懺悔しようとしていると表現した方が近いかもしれない。
死後の世界を信じるビリーバーのように。
花の目には、その姿がどこか妄信的に見えた。
もちろん、翠も分かっているはずだ。
土俵際で偽善に切り替わることがどれだけ陳腐に映るかを。
それでも、彼は、平然とした調子を装いつつ話を続ける。
「僕は自分優位で物ごとを考えていたのかもしれない。仲間だって言うなら、僕らの方が川崎さんを信じなきゃいけないのに……」
その言葉に花の胸は強く締めつけられる。
(仲間……)
翠が口にするそれは、決して虚構の登場人物たちのことを指しているわけではない。
より生々しい不完全な現実を指してそう言っているのだ。
その中に自分が含まれてもいいのだろうか。
たった一瞬の間に花の頭の中では様々な想いが交錯する。
だが、それも……。
翠のカラッとした笑い声にかき消されてしまう。
どの修飾語にも当てはまらない笑みを翠は浮かべていた。
「だからさ。あとは、やっぱり川崎さんが決めてほしいんだ」
ゆっくり考えてほしい。
そんな彼の優しさが伝わる言葉尻であった。
けれど、花の気持ちは冷静ではいられない。
(違うのっ……!)
そう声に出したかったが、目を合わせることすら抵抗を感じる花にとって、残された選択肢など存在しない。
甘えた自分の性格。
翠の折れない意志。
いつまでも追いつくことのできない平行線の関係。
そんなものが花の内で沈む何かを引き上げさせる。
(っ……!?)
強大な衝撃を感じることで、花は自身の中に眠る存在を知る。
(これ、って……)
今まで経験したことのない全身を焦がす感情に花は困惑し、居心地の悪さを覚える。
それは、密林で急速に繁殖を広げる熱帯植物のように思えた。
内側で爆発的に湧き起こり、熱を放射させて、膨張しているのだ。
(私が動かしてるの……?)
得体の知れないパワーに恐怖を感じる花であったが、これは抑制してきた反動の適切な解放行為なのだ、と自身を納得させる。
(怒ってるんだよね)
きっと正しい。
不思議と花はこの状況を無条件で受け入れる。
蓄積されたその大きさに圧倒されそうになるが、元を辿ればこれを育てたのは花自身に他ならなかった。




