第157話 花サイド-6
花は刺さる視線を強引に払いのけ、教室を飛び出す。
廊下に出ると、囚われの檻から抜け出せたような開放感が待っていた。
ここには、花に疑いの眼差しを向ける者はいない。
生徒たちの波に紛れると、ようやく心がひと息ついた。
その間、花は自らの進むべき道を決める。
心当たりは一つあった。
(職員室だ)
翠の疑問に対する回答が存在するとしたら、その場所以外あり得ない。
社家に質問を投げつけに行った、と考えるのがこの場合適切だろう。
正直、花の中で職員室へ向かうことには抵抗があった。
(やっぱ、バレてるよね普通)
防犯カメラに自分たちの姿が映っていなかったと考えるのはやはり現実的ではない。
花はそう考えを改める。
(知っているんだ。絶対……)
だが、どういうわけか。
社家は花に対して何も行動を取らなかった。
泳がされているという思いと、甘く見られているという思いが半々だった。
それでも――。
危険だと分かっていても、花は一刻も早く翠たちに会いたかった。
風に晒された灯火を消さないように手で覆いながら、ゆっくりと嵐に近づいていく。
そんな気分を花は味わっていた。
(謝って早く楽になりたいんだ、私)
〝今まで黙ってて、今さらそんなのズルいじゃないか〟
そう翠に詰め寄られたら反論できない、と花は思う。
しかし、綺麗ごとでは終われない場面も人生にはあるのだ。
偽善でもいい、自分の口から話すこと。
それが今の花にとって一番必要な行為であった。
(行かなきゃ……)
そう心に決めると、花は職務棟へ通じる渡り廊下に足を踏み入れる。
始業を告げるチャイムは、すぐそこまで迫っていた。
◇
丁度、死角があった。
廊下の柱に隠れた花は職員室のドアを睨みつける。
当然、望んでいた光景にはそう易々と出会えない。
二つある出入口は教師が慌しく行き来するだけで翠たちの姿はなかった。
彼らがここへ来たとすれば、中にいるのかもしれない。
そう頭では分かっているのだが、次の一歩は鉛のように重かった。
授業開始間近ということもあり、職員室は出入りが激しい。
花は死角を上手に使いながら、過ぎる教師たちを上手くやり過ごす。
丸腰のまま乗り込むには、それから数分間、柱の冷たさを感じておく必要があった。
始業開始のチャイムが鳴ってしまうと、花の決意は不思議と固まる。
後戻りはできないと、そう悟ったからだ。
(ドアの隙間からちょっと覗いてみよう)
ようやく一歩踏み出そうとする花だったが、今度は妙な違和感を抱く。
(……っっ!)
その正体に気づいた花は、飛び出しかけていた重心を元に戻す必要があった。
そうなのだ。
仮に翠たちが職員室の中にいるのだとすれば、それはイレギュラーな事態が発生したということを意味している。
授業を犠牲にしてでも留まる必要がある、ということだからだ。
あまり内容については、花は考えたくなかった。
入れ違いで翠たちが教室へ戻っていることを密かに願う花であったが、それだとわざわざここまで来た意味がなくなって本末転倒となってしまう。
どちらにせよ、答えはすぐそこにあった。
花は戸惑ったままの足をすっかりと活気が失われた職員室へ向けて伸ばす。
慎重に間合いを取りながら進んでゆく。
その間にも教師の誰かがドアから出てきそうで、花の心臓は爆発寸前であった。
素速く脈打つ鼓動の音を数えながら、花はドアノブに手が届く距離までやって来る。
もう逃げられない。
今、社家と遭遇すれば命はない。
そんな誇大妄想が花の中で膨らんでいく。
震える手を必死で押さえながら、花はドアの隙間からそっと中を覗こうとする。
その刹那――。
(…………!?)
あまりに突然の出来ごとに、花の思考は追いつかない。
痺れた感覚が魚雷のように全身を突き抜けていく。
花がドアに近づいた瞬間、それは起こった。
(っ!)
右肩に人の手を感じる。
何者かが触れているのだ。
ほとんど条件反射で花はその方へ顔を向ける。
この時、花は〝きっと社家に違いない〟と考えていた。
しかし、その読みは外れることとなる。
「お、追浜君っ!?」
肩に添えられた手の先を辿ると、そこには翠の姿があった。
彼はもう片方の手で口元に人差し指を立てるポーズを作る。
「ついて来て」
そう小声で呟く翠は、職員室を背にして歩き始めた。
「…………」
花はそれ以上何を言うこともできず、黙ってその背中を追うことしかできなかった。
◇
翠に会うという目的を達成したにもかかわらず、花の胸の靄は晴れなかった。
二人は、生と死の一線を共有する戦友のように寡黙な行進を続ける。
今朝の雰囲気が嘘のように、静かな静寂が花と翠を包んでいた。
そのまま翠の後に続き、花は文化棟へと通じる渡り廊下に足を踏み入れる。
教室とは逆方向だ。
そして、花は翠が向かっている先の予想をつける。
(もしかして、放送室に行こうとしてるんじゃ……)
今、誰にも邪魔されずに腰を据えて話し合える場所があるとすればそこくらいしかない。
教師に見つかっては元も子もないのだが、どういうわけか。
この間、二人は誰ともすれ違うことがなかった。
文化棟へと入り、3階まで階段を登り終えても、翠は依然として沈黙したままだ。
それから彼は、花が予想した通り放送室の前で立ち止まる。
結局、ここに至るまで二人が誰に見つかることはなかった。
あまりにもでき過ぎていたために罠を疑う花だったが、それは考え過ぎだと自らを諭す。
教師が校内を歩いていなかったのは、授業中だからという理由以外に昨夜の侵入の件が絡んでいるのではないか、と花は思う。
残りの者たちで会議を開いているのかもしれない。
花がそんなことを考えていると、突然、翠が口を開いた。
「……本当はこの時間は入っちゃいけない決まりなんだけど」
それは自身を戒めるような響きを含んでいた。
「う、うん……」
花が頷くのを確認すると、翠はブレザーのポケットから銀の鍵を取り出し、それを差し込んでドアをゆっくり開く。
「どうぞ」
命じられるがままに花は翠の案内に従うのであった。




